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岩屋に潜む孤独 ~『はにがれ』完結記念・『山椒魚』から『熱帯魚は雪に焦がれる』を読み直す~【再録】

文責: うどん脳
輪読会参加者: Ayata、しーしー、とむはま、東風あかね
本稿は 2021年9月20日刊行の『Liliest vol.5』に収録された記事の再録版となります。あらかじめご承知おきください。

祝『はにがれ』完結

傍にいてほしいのは、誰ですか。
その人をなんと呼びますか。

皆様がこう聞かれたらどう答えますか。
家族?親友?恋人?
いいえ。私なら、こう答えます。
その人は私の「蛙」であると。

……いきなり、何の話が始まったんだと思う方が多いと思います。大丈夫です。ちゃんと説明します。

まず、冒頭二行の素晴らしい文章ですが、これは私が考えたものではありません。この文章は、萩埜まこと先生の漫画作品『熱帯魚は雪に焦がれる』(株式会社KADOKAWA、2017〜2021)、通称『はにがれ』の一巻の帯に添えられたものです。

これは『はにがれ』のテーマを端的に、かつ情緒的に示した煽り文だと思われます。『はにがれ』は、内容はもちろん、帯のデザインも秀逸で、私は帯を欲しいがために紙の書籍を揃え、しかし特典も欲しいので電子書籍でも全巻購入するという行為に走っております。こんな調子で、帯欲しさに紙の書籍ばかり買うせいで部屋の空間が圧迫されるアナログ生活を抜け出せず、その上、偶に電子でも購入するのでお財布も圧迫されるという人生を送っております。

それはさておき。

『はにがれ』は「水族館部×女の子×方言」をテーマにしており、愛媛の高校の水族館部を舞台に二人の少女の触れ合いを描いた作品となっております。

読めば、寄せては返すもどかしい二人の距離に心臓を掻きむしりたくなるほど心を乱され、そして読了すれば、荒波と凪の先に別れを越えて二人が選び取った未来をどこまでも祝福したくなる、宝物にしたい作品……というのが個人的な『はにがれ』の感想です。

さて、読了、と述べた様に先日『はにがれ』は 2017年からの『電撃マオウ』(株式会社KADOKAWA)での連載を経て、めでたく完結いたしました。萩埜まこと先生、『はにがれ』に関わった全ての方々、四年間お疲れ様でした。そして、『はにがれ』と出会わせていただいて本当にありがとうございます。

そして、『はにがれ』の完結を祝して、東京大学百合愛好会では、『はにがれ』を読み直す会というものを開き、各人の感想や解釈などを共有しました。そこで、『はにがれ』が大きく影響を受けているであろう作品、井伏鱒二氏の『山椒魚』に関連した興味深い話がいくつか出てきたので、それらを形に残しておきたいと思い、この記事を書かせていただきました。

複数人の意見を統合したものであるとはいえ、これから話す内容は、個人の『はにがれ』『山椒魚』の解釈・感想の域を出ないものであり、内容の正しさを議論するものではないことをご了承ください。

あくまで、一解釈として、こんな考えで読む人もいるのだなと思って楽しんでいただければ幸いです。

一点、注意として、この先の内容は『はにがれ』最終話の展開にまで言及したものになっております。この先をお読みになる前に、というよりこの記事を読む読まないに関わらず、未読の方は『熱帯魚は雪に焦がれる』を最終巻である九巻まで今すぐご購入してお読みになることを強く是非にお勧めいたします。

また先に述べた様に、この記事は東京大学百合愛好会の会合で話し合われた内容を基に作成されておりますが、文責は私、うどん脳にありますことをご承知ください。

『山椒魚』について

『はにがれ』について話す前に、まずは『山椒魚』について軽く説明いたします。『山椒魚』は、一九二九年に小説家の井伏鱒二氏が雑誌『文芸都市』で発表した短編小説です。(※1)

気付かぬ内に頭が肥大化したために、住処である岩屋から抜け出せなくなった山椒魚。外の世界に鬱屈した感情を溜め込んでいった彼は、岩屋に紛れ込んできた一匹の蛙を閉じ込める。最初は言い争う二匹だったが、やがて互いに黙り込み、岩屋で嘆息をつくばかりで二年の時を過ごす。やがて蛙が死に瀕して初めて二匹は対話を行い、「友情を瞳にこめて」尋ねる山椒魚に対し、蛙の「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」という返事で話は締め括られる。(※2)

国語の教科書に広く採用されていることもあり、一度は読んだことがある作品ではないかと思われます。寓話の色が濃い話であり、解釈次第で井伏鱒二の自伝的一面や社会・文壇への風刺を読み取ることもできるでしょう。しかし、ここでは「岩屋」が閉塞的な世界を表し、「山椒魚」はそこに囚われた孤独を抱えた人物であり、そして「蛙」は最期まで山椒魚と共にあった人物である、という部分を強調しておきます。

余談ですが、前述したあらすじは『山椒魚』の改訂前のものとなります。『山椒魚』は、一九八五年に出版された『井伏鱒二自選全集』において、井伏鱒二氏の手によって終末部が十数行にわたって削除されています。つまり、山椒魚が蛙を岩屋に閉じ込めて言い争いを始め、その後、黙り込んで嘆息をつくばかりになった所で話が終わるのです。その後の二匹の会話、和解という流れが削除されたことに関して、当時の文学界では賛否両論あった様です。(※3)

ここでその是非を問うことはしませんが、山椒魚と蛙が最期には話し合い、そして和解したという部分は、『はにがれ』においてモチーフとして大きな意味を持っています。なので、とてつもなく個人的な意見を言うと、もし最初から『山椒魚』にその結末部分が無ければ、『熱帯魚は雪に焦がれる』という作品は存在していなかったかもしれない……と思うと改訂前の『山椒魚』は是が非でも世の中に残って欲しいですし、改訂前の『山椒魚』が世に広まったことを天に感謝したくなります。

『熱帯魚は雪に焦がれる』における『山椒魚』

それでは、『はにがれ』の話に入っていきたいと思います。

『はにがれ』の舞台は、愛媛県伊予長浜。父の海外赴任で、東京から親戚の家に預けられることとなった天野小夏は、転入先の七浜高校で水族館部唯一の部員、帆波小雪と出会う。それぞれの「寂しさ」を抱えた二人はやがて惹かれあっていき――。

ガールズシップストーリー、と銘打たれているように(※4)、時に触れ合い、時に遠ざかり、不器用にすれ違いながらも一歩を踏み出そうとする少女二人の心の動きを丁寧に描いた名作です。

さて、少しでも『はにがれ』をお読みになったことがある方ならすぐにわかると思いますが、この作品は一貫して『山椒魚』を題材の一つとしており、文章が直接引用されることもあれば、山椒魚や蛙が心情表現として作中に登場することもあります。この作品において、「サンショウウオ」は「孤独」の象徴であり、本当の自分を見せられない孤独、あるいは傍にいてほしい人が離れていく孤独など、形は違えど寂しさを抱えた人の元に現れる存在となっています。一方、「カエル」はサンショウウオに、孤独に寄り添う存在として描かれています。物語の序盤では、周囲に期待される優等生とは違う一面をひた隠しにする小雪に小夏は「サンショウウオ」を見出し、小雪を救う「カエル」になろうとします。

孤独を抱える「サンショウウオ」と孤独に寄り添う「カエル」というモチーフは、作中で一貫していますが、これには『はにがれ』独特の『山椒魚』解釈が含まれていると言えるでしょう。特に「蛙」に関して、『山椒魚』において蛙は岩屋に「まぎれこんだ」(※5)のであり、また山椒魚と激しい口論を始めるなど、少なくとも岩屋に閉じ込められた当初の場面で山椒魚に対する歩み寄りは読み取れないと解釈することができると思います。

一方、『はにがれ』での「カエル」はより積極的にサンショウウオに寄り添う存在として描かれています。小夏が「わたしはずっとカエルになりたかった サンショウウオといるために あなたといるために」と語る様に(※6)、ここでのカエルはサンショウウオと共にあることが目的であり、いわば自ら望んで岩屋に入っていった存在と言えるでしょう。

『山椒魚』では、抜け出せない孤独に絶望した山椒魚がすすり泣く声を「注意深い心の持ち主」ならば、岩屋の外からでも聞き逃さないだろうと語る部分があります。『はにがれ』のカエルはまさに「注意深い心の持ち主」であり、サンショウウオに閉じ込められたのではなく、自ら岩屋に閉じ込められることを選択した、と解釈していると考えられます。山椒魚と蛙の和解の物語と解釈されることが多い『山椒魚』ですが、『はにがれ』では一味違う解釈を基に物語を展開しているのです。

「サンショウウオ」とは誰か

『はにがれ』では「サンショウウオ」と「カエル」が重要な表現となっていると述べましたが、では、「サンショウウオ」と「カエル」は具体的に誰を指しているのでしょうか。

前述した様に、小夏は小雪をサンショウウオだと感じました。確かに小夏をサンショウウオだとするなら、「岩屋」が表すものもわかりやすいと思われます。独りで居る水族館部の部室、優等生を演じなければいけない教室、教師の娘と周囲に知られた伊予長浜という土地。これらは小雪に孤独を感じさせる閉塞的な世界であり、そこに外から飛びこんできた小夏はまさに「カエル」であるのです。

しかし、「サンショウウオ」とは小雪だけを指す存在ではないのです。小雪がサンショウウオで小夏がカエルであるという関係が変化していくのが、中盤以降の物語となります。

小雪に寄り添うカエルになろうとする小夏。小夏との触れ合いの中で、小雪は「優等生」という他人との壁を少しずつ壊していく。卒業と地元を離れることへの寂しさと向き合いながら、成長していく小雪。しかし、小雪の変化を見て、小夏は小雪が次第に自分から遠ざかっていくと感じ、自分の中に息づく「サンショウウオ」を目にする――。

サンショウウオとカエルの関係は転換する、これは『はにがれ』の一つの大きなテーマでもあります。小雪に対しカエルとして接してきた小夏。しかし、周囲との距離を縮めていく小雪を見て、小夏は苦しみを覚えます。そして自分は「孤独」を共有する存在として小雪を求めていたこと、クラスメイトや後輩では埋められない小雪との関係を失うくらいなら、小雪に「孤独」なままでいて欲しいと望んでいることに気づきます。

ここで、小雪よりもむしろ小夏の方が「サンショウウオ」であることが示されるのです。「山椒魚」は狭い岩屋で孤独を抱えた存在であると述べましたが、「山椒魚」の最大の特徴は、ただ孤独に苛まれるのではなく、他者を同じ境遇に貶めることで孤独を解消しようとした、その攻撃性、「よくない性質」に(※7)あると考えられます。孤独を一人で抱えこもうとした小雪と、孤独を癒すために小雪というカエルを閉じ込めたいと願ってしまった小夏では、小夏の方がより「山椒魚」に近いと言えるでしょう。

このことは、作中で視覚的にも表現されています。前ページの切り抜きを見ていただければわかる様に、二人は孤独の表れとしてサンショウウオを抱えているわけですが、二人のサンショウウオには作中で一貫した違いが見られます。小雪のサンショウウオは小型のカスミサンショウウオであるのに対して、小夏のサンショウウオは何倍も巨大なオオサンショウウオで表現されているのです。卒業、すなわち二人の別れに対して、ある程度気持ちの区切りをつけて向き合っている小雪と、別れを受け入れられずにいる小夏、二人が抱える孤独の深さの違いが、サンショウウオの大きさとして表されているのです。

また、大きさに着目すれば、カスミサンショウウオは頭が成長する前の山椒魚であり、オオサンショウウオは成長し岩屋から抜け出せなくなった山椒魚である、とも解釈できるでしょう。カスミサンショウウオというイメージを小夏が抱いたのは、水族館部でカスミサンショウウオの展示を見たことに起因すると思われますが、そのカスミサンショウウオ(作中で「こゆき」と命名されます)は、最初は水槽の奥に籠っていますが、やがて稀に顔を出す様になります。カスミサンショウウオの「こゆき」が自ら顔を出すという話は、その後の小雪のサンショウウオの描写を含めて考えると、岩屋から自ら抜け出し孤独と向き合うことが出来た小雪を投影した存在と言えるかもしれません。もちろん、実際のカスミサンショウウオが成長してもオオサンショウウオになるわけではありません。しかし、七浜高校のモデルとなった長浜高校の水族館部さんに、実際はカスミサンショウウオはいないとのことなので(※8)、このカスミサンショウウオは「はにがれ」の物語において意味を持った存在であると考えるのが自然ではないでしょうか。一方、岩屋を塞ぐという点から考えると、オオサンショウウオが井伏鱒二の言う「山椒魚」であると考えられます。つまり、小夏のオオサンショウウオこそが「山椒魚」であると考えられるのです。このことからも、サンショウウオの描写により、小夏が抱える孤独がより他者へと向かうものであると言えるでしょう。

思えば、『熱帯魚は雪に焦がれる』という題名を見ても、小夏こそがサンショウウオであるとわかるかもしれません。熱帯魚、すなわち温暖な気候に住むものが冷たい雪に焦がれる、というのは小夏が小雪を求めるという意味にも受け取れるのではないでしょうか。

小夏をサンショウウオとするなら、彼女にとっての「岩屋」は、部室などを含めた小雪との時間そのものだったのでしょう。小雪との時間は二人だけの岩屋であり、他の人間ではその埋め合わせはできないのです。だからこそ、小雪が岩屋を去り、独り残されることは、小夏にとって耐えられないことであったのです。

誰もが「カエル」で誰もが「サンショウウオ」

物語はついに終盤へと至ります。

感情を爆発させた小夏。小雪は小夏の苦悩に気付けなかったことにショックを受けるも、小夏と向き合う覚悟を決める。そして、お互いの寂しさも本音も曝け出して、二人は自分達の繋がりを再認識する。孤独を受け入れて、二人は別々の道を歩む。しかし、それは別れではなく、二人は確かに特別な絆を抱いて、そして岩屋の外、広い海の中で再び出逢う――。

小夏もまた「サンショウウオ」であるという話をしてきましたが、ここで示されるのはそれでも、小夏は確かに小雪の「カエル」であったということ、そしてまた小雪が小夏にとっての「カエル」でもあったということです。というより、二人を初めとして、皆が心のどこかに「サンショウウオ」を飼っていて、同時に皆が誰かにとっての「カエル」になれるということ、それが終盤の、ひいては『はにがれ』が伝えかった一番大きなテーマではないかと思われます。そして、「サンショウウオ」と「カエル」が寄り添い、共に岩屋を出るために必要なことは、話し合うことなのです。

小夏の寂しさを理解してくれない周囲への苦しみを、小夏は小雪にぶちまけます。そして、その苦しみはまさに少し前まで、小雪が家族や小夏に対して抱えていたものでした。離れてしまうことに対して感じる寂しさを、相手が同じ様に感じてくれない孤独。自分が特別だと思っていた繋がりが、相手にとってはそうではない一方通行な思いなのではないかと感じる苦しみ。

同じ孤独や苦しみを抱える人物は『はにがれ』に多く登場します。

広瀬楓はその代表と言えるでしょう。楓は「ふたりにとって架け橋的な存在になりたい」と語り(※9)、何かと小雪と小夏の世話を焼いています。二人の仲を取り持つ楓の存在は「カエル」的な立ち位置であり、物語でも大きな役割を担っています(毎巻、三人しか記載されない「登場人物」の枠に入っているだけはある活躍ぶりです)。秋に色づく「楓」が小夏と小雪の間に立つというのは、名前からも伺える役回りとなっています。

しかし、彼女もまた二人と同じ孤独を抱えた人間です。実家を出ていったまま滅多に帰ってこない姉に対して、寂しさを感じていますが、それが一方通行な自分だけの寂しさではないかと悩んでいます。描写こそありませんが、楓もまた「サンショウウオ」であると言えるでしょう。

一度、小夏はその様な孤独に対して、相手の自分への感情の度合いなど「知らん方がいいこと」(※10)ではないかと語り、楓もどこかで同じ様に考えていました。

しかし、それは「知らん方がいいこと」ではなく、怖くてもきちんと言葉にして相手に問い、行動で示さなければいけないことだと突きつけるのが小夏と小雪の物語なのです。二人は、お互いの寂しさをきちんと言葉にして伝え、同じ孤独を抱いていたこと、二人は確かに同じ「岩屋」にいたことに気づくのです。

楓も姉と向き合い、行動で寂しさを示し、そして姉妹の繋がりを見出します。

また、小雪の家族も同じ様に「サンショウウオ」を抱いています。小雪が苦しんでいる時に、力に成れない無力感、そして小雪が家を離れることへの心配と寂しさ。それらを押さえ込んで、小雪の県外進学に協力するという姿勢は、小雪が望んだものではありませんでしたが、弟の冬樹の言葉で小雪は母親の「サンショウウオ」的な感情に気づき、結果、両親の行動は小雪を支える小雪にとって「カエル」の行動へと変化するのです。

この様に、「サンショウウオ」と「カエル」は誰もが持つ側面であり、それらは受け取り方によっても変わってくるものなのです。

それを端的に表したのが、以下に示した場面になります。

「いっそ山椒魚になれたらいいのに……」という小雪の台詞は、小雪が「サンショウウオ」になってしまえば、小雪にとっての「カエル」である小夏とこれからも共に居られるという意味だと思われます。しかし、小夏の目には、そう語る小雪の肩に「カエル」が乗っている様に見えているのです。すなわち、「山椒魚になれたらいいのに」という言葉が、小夏にとっては「カエル」の言葉であるのです。同じ言葉であっても、自分と相手で「サンショウウオ」であるか「カエル」であるか変わるということをこのシーンでは、一目で理解できる様になっているのです。

小雪のこの言葉は孤独を共有し、さらに相手に寄り添いたい、共にありたいという思いまでも通じ合ったことを表し、故に小夏にとっては涙するほどの喜びとなったのです。

小雪と小夏が話し合って分かりあい、そして別々の道を歩みだしたこと、二人で岩屋を出たことは、『山椒魚』に対する一つのアンサーでもあります。少なくとも改訂前の『山椒魚』では、山椒魚と蛙は最期に友情らしきものを結んだと受け取れますが、二匹は岩屋を出ることなく息を引き取ります。二匹は、意地を張って口論やだんまりを続けた結果、分かり合う時間を失ったのです。最後の場面においても、特に山椒魚の方はどこか回りくどい言い回しで、意地を捨てた全てを曝け出しての話し合いには至っていない様に思われます。

もっと早くに、互いの孤独を、気持ちを伝えていれば、二匹が岩屋を出る道もあったのではないか。『熱帯魚は雪に焦がれる』という岩屋の外で共に生きることを選んだサンショウウオとカエルの物語は、そう語っているのです。

『はにがれ』の表紙を見ると、どれも小雪、小夏、楓が海に沈み、そして誰かに手を伸ばしている構図であることがわかります。水の中で、それでも手を伸ばして懸命に相手を求め続けたのです。そして、最終巻。遂に、小雪と小夏は海を出て、初めて満面の笑みを見せます。二人の明るい未来を感じさせる、そんな清々しい笑顔です。

求め合い、傷つけ合い、話し合い、そして分かりあった。その果てに、二人はこれからそれぞれの道を歩むのでしょう。それでも、二人が道を別つことは無いのでしょう。なぜなら、サンショウウオとカエルは共にあるのですから。

あとがき

長々とした文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。複数人の意見を統合すると言いつつ、私個人の考えや感想を多分に含んだ内容となってしまいましたが、どうかご容赦ください。

この記事の結論をまとめると、誰もが孤独を抱えた「サンショウウオ」と、孤独に寄り添う「カエル」の側面を持ち、孤独を言葉や行動で表して初めて気持ちを通じ合わせることができる、ということでしょうか。実は、このことは作中で明確に表現されていることです。読んでいれば自然と沁み入ってくるテーマだとは思いますが、読者に自然とそれを理解させるには、表現や人物の構図において様々な細かい工夫があり、それを少しでも読み解こうとしたことをご理解いただければ幸いです。

また、本文に入れる所が無かったので、ここで述べさせていただきますが、会合では『はにがれ』はかなり大きく作画が変化しているのではないか、という話題も上がりました(記事中に示した小夏を見てもわかっていただけるのではないでしょうか)。コメディタッチだった序盤から、段々と二人が感情を溜め込んでいくほどシリアス風になってゆき、最終話付近ではどこか明るい瞳になっている。話の展開に合う様な画風を、萩埜まこと先生が色々と模索されたのではないか、と素人ながらに考えました。それはよいのですが、とあるドチザメのジョージ推しの会員から「ジョージがもう喋らなそうな作画になったのが少し悲しい」といった声があり、それに対し「魚と会話しなくなったことが精神の成長を表しているのでは」という意見が出て「そんな……」との呟きがあったことをご報告させていただきます。



ちなみに、私はリクガメのリクちゃんが好きです。


それはともかく。この文章を読んで、もう一度『はにがれ』を読んでみようかなと思っていただければ幸いです。もしも、『はにがれ』を知らなかった方が、『はにがれ』を知る機会となったならば、それは望外の喜びです。

もちろん、語り尽くせていないことはまだまだたくさんあります。この記事を書くにあたって、『はにがれ』を何度も読み直して、自分なりに色々と見えてなかったものが見えてきました。皆様も、ぜひ自分なりの『はにがれ』を見つけていただければと思います。

それでは、この辺りで締めとさせていただきます。
最後になりましたが、萩埜まこと先生のこれから一層のご活躍を、一ファンとしてお祈り申し上げます。

※1  井伏鱒二『山椒魚』loc.3107/3183(新潮社,第百七刷,2014)(ebook-Kindle)「昭和四年〜に発表。」を参照
※2 同書loc.139/3183より引用
※3 裴崢「『山椒魚』の指導に向けてー作品の分析」人文研究第92輯,117-118
※4 萩埜まこと『熱帯魚は雪に焦がれる 1』,163頁,株式会社KADOKAWA,初版,2017
※5 井伏鱒二『山椒魚』loc.109/3183
※6 萩埜まこと『熱帯魚は雪に焦がれる 7』,99頁,株式会社KADOKAWA,初版,2020
※7 井伏鱒二『山椒魚』loc.109/3183
※8 萩埜まこと『熱帯魚は雪に焦がれる 4』,裏表紙を参照,株式会社KADOKAWA,初版,2019
※9 萩埜まこと『熱帯魚は雪に焦がれる 6』,24頁,株式会社KADOKAWA,初版,2019
※10 萩埜まこと『熱帯魚は雪に焦がれる 3』,24頁,株式会社KADOKAWA,四版,2019

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