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祖母の本棚

 武蔵小金井の祖母の家には、百科事典と、歴史の全集があった。
 本棚のガラスの奥に、黒くて太い背表紙が、兵隊のように並んでいた。巻数もローマ数字で偉そうに『Ⅺ』だの『Ⅻ』だのと、たいそう見栄えが良い。見栄えが良いばかりで、実用に供された痕跡は皆無だった。大のオトナだって、こういう本は好んで読まないんだと知った。
 祖母は台湾生まれの引揚者で、戦争を知る優しい人なのだが、そこはそれ昭和一桁の日本人らしく、見栄っ張りなところもあった。
 百科事典と全集は、当時の値段でも軽く10万円以上、おそらく20万円くらいはしたはずだ。そんな大金を、読みもしない本につぎ込むなんて、どうしたってアホらしいと思う。
 こんなものが、教養の証明になるのかな? ならんよね。
 しかしこの国では、重たい本を飾ることがステータスだった時代が何十年も続いていたのである。俺はその末期を、幼児として目撃していたことになる。

 処女のような百科事典と対照的に、同じ本棚に3冊、祖母がよく開く本があった。どれも並製本で、昔は今より本が安かったから、300円から500円の間だったろう。電気こたつの傍にはやっぱり、こちらのほうが似つかわしい。
 1冊は、常識とマナーの本。もしも人間に「教養」なるものがあるとしたら、この本にたくさん手垢がついていたことこそ、彼女の教養の証明だと思う。
 俺も小さい頃、興味本位で開いてみたことがある。その本によると、労働組合では、年賀状に「闘春」と書いて送り合うらしい。勇ましい言葉だなと思った。2020年の最新版には載っていないだろうなあ。
 もう1冊は、子どもの疑問に答えるための本。「テレビゲームって、どうやって作るの?」と聞いたとき、祖母はこの本を引き引きしたが、結局降参したことを覚えている。
 こういう本が茶の間にあることは、当時の俺にとっては当たり前だったけれど、彼女が俺と過ごす時間を大切にしていた証拠みたいで、いま思い出すとなんだか、あらためて嬉しいものがある。
 そして最後の1冊が、歌集である。童謡と子守唄がたくさん載っていて、俺は「浦島太郎」と「ゆりかご」、そして「やぎさんゆうびん」がお気に入りだった。これも祖母は、端から俺に歌い聞かせてくれた。

 祖母は歌が上手ではなかった。
 寝そべって歌うとなると、プロの歌手だってなかなかミューズにはいかないものだけど、それにしても調子はずれだった。若い頃に結核をやって、肺臓を片方取っていたから、肺活量がなかったんだ。あの蚊の飛ぶような、細い声が懐かしい。
 際限なく甘やかしてくれる祖母に対し、俺はどこまでもわがままで意地悪だった。けばだった歌集を開いて、寝しなに「やぎさんゆうびん」を歌ってくれとせがむ。
 察しがいい人はすでに、その悪意におののいているだろう。「やぎさんゆうびん」というのは、童謡界きっての恐ろしいナンバーである。この歌を書いたまどみちおは、2番までしかない他愛ない歌詞を「永遠に繰り返せ」と厳命しているのだ。

やぎさんゆうびん
作詞 まどみちお
作曲 團伊玖磨

1.
しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの てがみの ごようじ なあに

2.
くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの てがみの ごようじ なあに

以下、永遠に繰り返し

 歌う側がスタミナを切らして必ず負けるという、ひどい遊びである。もちろん俺は、それを知っていて祖母にせがんだ。彼女も不毛に思ったのか、割と早い段階でギブアップしていたと思う。
 卑怯な勝ちだけれども、勝った特権で俺は質問をぶつけた。
「じゃあ、最初に着いた手紙には、何て書いてあったの?」
 祖母は祖母なりに、童謡の世界を損なわないような回答を考える。
「今度の日曜日、晴れていたら、遊園地に行きましょう」
 うたごえ世代の発想だ。こればっかりは、絶対に違うと思った。
 過去から未来に向けて、老婆の喉や呼吸器、あるいは生命のかぎりを越えて無限に続くのが「やぎさんゆうびん」の世界である。「無限」に相応する答えでなければ成立しない。幼児の語彙でそんなように食い下がったら、ここでも彼女は困り果てていた。

 俺は幼ながらに、すでにひとつの結論に至っていた。最初の手紙に書いてあった内容も、「さっきの てがみの ごようじ なあに」だったはずだ。
 「やぎさん」世界では、この手紙の往復だけが永遠に繰り返されている。その中から任意の1通をピックアップしたとき、「ごようじ なあに」以外が現れる確率は「1/∞」だ。すなわち、期待すべき数値ではない。
 何もないところで、いきなり「ごようじ なあに」なんていう手紙を書いて送るのは、たしかにおかしい。必然性がないようにも思える。しかしそんな人間らしいコミュニケーションの理屈は、「永遠に繰り返す」という前提に比べれば、取るに足らないものでしかない。

 そんなことを考えているうちに俺は、手紙を書いては食べ、書いては食べを続ける2頭のやぎが、不憫でならなくなった。
 いつしか彼らは、心も感覚もなくなって、ただの機械になってしまうだろう。いや、先ほどの理屈でいえば、2頭のやぎは、すでにその状態であるはずである。
 じゃあ、死ぬって何だろうなあ。生きてるって何だろうなあ。常夜灯だけの部屋で、天井のしみを眺めながらそんなことを思っていたら、隣にいる祖母が死ぬことが、急に、ものすごく恐ろしくなった。世界が終わってしまうのと同じくらい怖かった。
 あのとき確かに、祖母の存在は、俺にとってのすべてだった。

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