見出し画像

応援って、何だろうね

大好きなチームが負けた。

彼らの目指していた世界への道が絶たれた。今年はもうチャンスはない。

敗者インタビューでの、憔悴し涙を流す大好きな選手たちの姿が、紡がれた言葉が、脳裏に焼き付いている。

ファンにできるのは応援だけで、涙を流す選手の背をさすることはもちろん、苦しみの捌け口にすらなれない。

敗戦後のTwitterのタイムラインでは優しい言葉を紡ぐ人たちがいた。「見ていることが選手にとって凄く力になっている」「応援は選手のパワーになっている」素敵な考え方だ。

私も応援は選手の力になっていると思っていた。いや、思い込んでいた。私は、応援することしかできなくて。だから、この応援は微力でも選手の力になっているはずだ。そう思い込まないとやっていられなかった。

だが、応援は本当に選手の力になっているのだろうか。友達や身内に「頑張ってね」の一言をかけられることは、きっと力になるだろう。でも、顔も名前も知らない人からかけられる言葉はどうだろうか。顔も名前も知らない赤の他人から毎日「頑張って」の声が届く。それは大きな大きなプレッシャーになっていないだろうか。

そのプレッシャーをかける一員に加担していると思ったら途端に怖くなった。選手のことを考えて、少しでも力になりたくて推敲に推敲を重ねて紡いでいた言葉が、選手の心の澱になっていたのだとしたら。知らず知らずのうちに心の柔いところを刺していたのなら。

もちろん私1人の言葉がそんな力を持っているなんて思わない。だが、多くのファンを抱える彼らは毎日たくさんの言葉をぶつけられる。悪意のこもったものも、優しさに溢れたものも、全部全部。私は、自分勝手に言葉をぶつけてはいなかっただろうか。

選手は応援が嫌だなんて基本的には言えない。「応援ありがとうございます」の言葉の裏に誰にも言えない苦しみが隠れているかもしれない。

臆病な私は、耐えられないと思った。私の紡ぐ言葉が少しでも選手の心に傷をつけるなら、応援なんてやめてしまった方がいい。そう思った。幸い、私が応援をやめても彼らにはたくさんのファンがいる。私1人の言葉がなくなったとて大したことはない。

でも、試合後からベッドから起き上がれず寝てばかりでこんなに悩んで塞ぎ込んでいる私が言葉を紡がなくなっても、彼らに心無い言葉はぶつけられるし、デリカシーのない質問を配信やリプライでする人は残り続けるし。

そう思うとなんだかやりきれない気持ちになった。1年半ほど応援してきて大好きな選手とコーチたちがハッピーエンドに辿り着くところを見ていないことが、記憶に鮮明に残る選手の顔はいつも泣き顔であることが、心残りではある。けれども、まだ応援していていいのか。気軽に応援していると言っていいのか。私は、答えを出せずにいる。

ここまで足をお運びいただきありがとうございます!もし記事を気に入ってくださったら貴方様の無理のない範囲でサポートしてくださると嬉しいです。