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人生で大事な瞬間


春。女子ばかりの大学の寮、4月の頭。ちょうど毎年新入生が入ってくる時期になると、いつからあるのかってくらい黒く古びた木の窓枠にハマる窓のレースカーテン越しに桜が満開になっていた。
その桜を友人たちと屋上のへりに腰掛けながら、ただただのんびりと「きれいだねえ」とだけ言って、眺めていた。淡い桃色に咲き誇る視界いっぱいの桜の中でいつもと変わらぬ部屋着の友人たちが笑う。いつもある日々と、期間限定の光景が織りなす思い出。春になると何度も思い出すその景色が好きだ。陽が高く暖かくなってくると、鮮やかな花の中にいる友人を思い出す。

夏。一人暮らしのアパートに、友人たちが遊園地帰りに宿泊先を求めて押しかけてくる。私も誘われていたけれど別の用事が先に入っていたので夜から合流。コンビニで買った安いお酒を開けて、今日1日の笑い話と古い日々の思い出話を聞いていると、ふと思い出したように机の上に何かのおまけにもらった線香花火があったことを思い出す。一人暮らしの家にバケツなんてない。部屋にあるのはお香を焚くためのライターくらい。浅い風呂桶に水をため、扉ガラス2枚の片方を開け、一畳くらいしかない小さなベランダに半身を乗り出して各々線香花火に火をつける。「夏してる」と私がいう。「えもい」と友達が笑う。場所取りをした花火大会で見た大輪を咲かす打ち上げ花火よりも、野球場の7回裏で勝っている時のファンをわかす打ち上げ花火よりも、その光景が色濃く残る。毎年夏になると思い出す風景だ。

秋。広島は縮景園。県花が紅葉とだけあって、どこでも色づいているが、日本庭園に行くとこの時期は池と和風の建物も相俟って雰囲気がある。私は友人とそこに訪れる。お互いあまり勉強が得意な方ではなく、劣等生として仲良くしていたが、彼女が転校してしまって私が実家に帰省する時くらいしか会う機会はない。特に理由はなく、彼女と会う時に昼食をとったあと散歩がてら訪れるのがこの日本庭園で、お互いのお気に入りの場所だった。紅葉を背景に写真をとる。鯉が人間を見つけて池の水面に集まる。屋根のある休憩所で腰を下ろしてバカな話をして笑う。話した内容を覚えてもいないほど些細な時間だったが、ふと思い出す懐かしい風景だ。大阪の万博公園の滝もきれいだった。つまるところ、紅葉が私は好きだと思う。

冬。北海道よりもはるかに緯度が高いスコットランド。遠い日本のことを思う。この国では冬は午後3時半に街灯がつき始め、5時にはあたりが真っ暗になる。朝は8時まで日が昇らない。後もう少ししたらクリスマス休暇で日本に帰れる12月、もう既に雪が降っていて、雪が氷になった沿道をザクザクと踏まれる音が歩く度に鳴る。冬の冷たい空気が針のように頬を差し、深く吐いた息が白く上がっていく。道の土が雪を汚す純白とは遠い世界。孤独だけれど、どの冬も寒くなった頃、この景色と共に聞いた椎名林檎の「ギブス」を思い出す。

砂浜で、何もない海を見つめる。波の音を聞く。海があるということだけを楽しみに海へ行く。
高校生の頃、友人に「海に行きたい」と言われてバスに乗って浜辺に行った。泳ぐことも足をつけることもない、晴れた砂浜でiPodのイヤフォンを半分こにして当時好きだった音楽を聴いた後、アイスクリームを食べて帰った。
あの瞬間がいつも私の宝物になっているから、私は一人でも海を見にいく。どんな季節でも、どんな景色でも。

青葉が香る初夏も、紫陽花が咲く梅雨も、虫の音を聞く夏の夜も、きっと澄んだ空気と雲一つない秋の朝も、長雨の秋の夜も。まだ暑くなる前のやわらかな熱を孕んだ夏の朝も、空気が乾いて星が見渡せる冬の夜も、淡いグラデーションを作る春の黄昏も。

その温度を知ることがなくとも波寄せる海を見る。

全てが私のいのちを縁取り生きていく日々を彩る好きな景色で、私は五感で生きていることを思い知る。

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