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物を持つということ、捨てるということ


物を捨てるのが苦手だ。昔からずっとだ。
小学生の頃、バレンタインや誕生日に友人からもらったプレゼントの包み紙が捨てられなかった。可愛かったというのもあるけれど、それも込みでプレゼントだと思っていたので、もらったものを一部でも捨てるのに罪悪感があった。
使わなくなった教科書やプリントを捨てるのも苦手だった。いつかまた開きたいと思う日が来るかもしれないと思っていたし、それは正しく今思うことだ。
小学校の頃読んだ「ずうっとずっと大すきだよ」も「あの坂をのぼれば」も「つりばしわたれ」も「くじらぐも」も説明文だった「動物の体」も、最初の一つ以外は題名は忘れていたが内容はしっかり覚えている。20年近く前の記憶だが、どんな内容だったか覚えている。「あの坂をのぼれば」には「草いきれ」という言葉が確か出ていて、初めて習ったのすら記憶にある。
中学の日本語(いわゆる国語)の授業を勉強したときに作った「アルジャーノンに花束を」や「銀河鉄道の夜」の人物分析。薫子やカムパネルラがどういう人だったか手軽に知れるいい資料だったがもう手元にはない。

何でもとっておくのには多分もう一つ理由がある。正直私は物の扱いが雑なのだろう、長くきれいに使うというのは苦手だ。財布の縁の加工が剥がれてすぐにぼろぼろにしてしまうし、有線イヤフォンを使っていた頃は半年に一回片耳ずつ断線してダメにしていた。中学生の頃与えられたデジタルカメラを落として三度は壊し、今でもスマホ画面に貼った保護ガラスは大体半年に一回割る。気をつけているけれど気づくとダメにしているものが多い。
本当は物を長く綺麗に使う人に憧れているが、私はそうはなれないという確信すらあるほど小さい頃からあんまり物を扱うのに長けていない。(力を入れすぎて壊したことがあるものも多い。そこは「破壊神」と呼ばれる自分の推しによく似ている。)
物を雑にしか扱えないというと語弊がある。集中力や継続力がないのだ。大切にしようと意識が日常のどこかで事切れてしまう。そして大体そういう日が積み重なって、物は壊れる。
愛着がないわけではない。買う物ひとつ、できるだけ自分が好きな物を選ぶ。好きな色を、気に入った性能を、良いと思うデザインを選ぶ。思い出そうと思えば、これはここが好きで買ったという思い出がたくさん出てくる。買い与えられた物、プレゼントしてもらったものも全てではないけれどちゃんと思い出せる。
でも、長く使うことに長けてはいない。

できるだけ、長く使いたけれど多分使うことはできない。

でもくたくたに消費することも愛なのかのしれないと最近気づいた。ぼろぼろになるまで愛用するというのも一つの消費の形で、私の自己満足でしかないが、物のための一つの供養になる気がする。

壊れるとわかっているからいくつも同じ物を買い足してしまう。
若い頃はそんなことなかった。どんなにボロボロになろうと、使い続けてしまう。高校生の卒業前に学年で作ったもう文字がひび割れたフーディーも、途中でやめてしまった大学のパーカーも、人にもらったぬいぐるみも捨てられなかった。
でも今はちがう。同じiPhoneケースを何度も買い直して、汚くなったら捨てる。使い終わったディフューザーは、箱まで取っとくなんてことしないで、同じ匂いがあればまた買う。ちゃんと使って私の年齢や立場と折り合いがつかなくなったら、ちゃんと消費できたと思って捨てる。
自分に必要なものだけを持って生きていける。

きっと、私が持っているものはお守りだったのだ。人が自分を考えて送ってくれたという気持ちと、自分が好きなもので人生をできるだけ楽しく送れるようという願いだった気もする。
今までを生きていくために必要だったと思いたい。

ただの貧乏性なのも否めないけど、そうやって折り合いをつけて生きていく。
まだ部屋には荷物が多い。少しずつ折り合いがついて、物質ではなく心にちゃんと気持ちが根付けば私はもっと身軽になるのかもしれない。
しがらみが多い生活だけど、嫌いではない。

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