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狂気

めちゃくちゃ好きじゃない限り、絶対に本物は生まれない。段々とそのことが分かってきた。身を助くにせよ滅ぼすにせよ、宇宙的なエネルギーを生むのはただひとつ、偏愛だけである。しかし、僕にも一応愛するものはあれど、押しなべて人並みであってそこに狂気が宿ることはもはやないだろう。仕事も、あと大さじ五杯分くらいやる気を盛ってもらえればまた違っただろうけれど、結局生活の糧という域を出ないまま何者でもなく終わるのだろうと予感している。これは決して悲観ではない。僕は至って中立的かつ客観的に自分の立ち位置を日々確かめているつもりだし、至って平凡に(あるいはそれ以上に)幸せである。もちろんその危うさも知っているつもりで、山道よりも舗装された道の方が転びやすいことはなんとなく分かっている。しかし、偏愛や狂気を持たないからこそ生活が保障されているのもまた事実であって、このあたりのバランスは本当に難しい。この世で大事なことは次の3つに尽きる。それはバランス、バランス、そしてバランスである。しかしそのバランスの取り方が極めて難しい。殊に、子供にそれをどう教えるかときたら、輪をかけて難しい。この難問を解き明かしたときに初めて人類に平和が訪れるだろうと思うほどだ。結局のところ、「好き」は「嫌い」でしか定義できない。嫌いの表明は敵を生むかもしれないが、自分を守る上ではものすごく大事なことだと思う。嫌いの彫刻刀をもって如何に上手く自分の木を削り出すかこそが、幸せにつながるような気がする。しかし、削りすぎてもいけないし、脂肪を持たせてもいけない。立場を変えて見れば、自分が誰かの彫刻刀になってはならないのだろう。他者を尊重するというのは、本当に難しいことである。

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