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娘が勉強したくないと言う。

なんで勉強しなきゃいけないのと聞いてくる。おぉついにこの瞬間が、などと感慨に浸っている場合ではない。僕なりに答えを見つけなければならないだろう。

そもそも、何が何でも勉強せよとは全く思っていない。幸せで豊かな人生を歩んでもらいたい、親として願うのはそれだけである。勉強などはその手段のひとつにすぎない。勉強が幸福を約束してくれるのであれば話は別だが、そうではないことを僕は知っているから、勉強できるに越したことはないよと無責任に言い放つこともできない。

そのうえ、娘はとても頑固である。やりたくないことは絶対にしないし、やらない理由を見つけるのも天才的だ。まったく、副乳とかつまらないところばかり僕に似ている。そんな彼女だから、無理やりやらせても良い結果にならないことは目に見えているし、こちらとしてもどうも立場が弱い。

とはいえ、学歴と収入の相関関係が厳然として存在しているのも確かだ。カネは、決して幸せ行きの切符ではないけれど、そう信じることはできる。そこに宿る幸せも確かに存在するだろう。かりそめの幸福かもしれないが、かりそめでない幸福などあり得ない気もするし、要は信心深さの問題だとすれば、誰もが平伏すものなどカネを置いて他にないわけで、だとしたら、勉強というやつには、幸せなんていう煙のようなものをつかむためにあたって、最善は言い過ぎだと思うけれど悪魔的な確実性みたいなものを感じてしまうのも事実なのだ。

そのあたりが「勉強する意味って何?」問題への答えにくさの原因な気がする。結局、幸福の引力に振り回されてぐるぐるぐるぐる公転するしかないのだ。「世の中がそうなっているから」という答えになんとなく説得力を感じてしまうのも、きっと根っこは同じなのだろう。

だから、こんなことを言っては身も蓋もないけれど、答えなんてないのかもしれない。勉強に意味なんてないのだ。というか、意味を求めようとするから堂々巡りなのであって、意味を問う行為それ自体を問うべきなのかもしれない。フグの卵巣の糠漬けと一緒である。テトロドトキシンの猛毒が2年の糠漬けで抜けるメカニズムは未だに分かっていないらしいけれど、それならばと「糠漬けなんか3日で十分」とひょいと食ってしまえば僕らは、十中八九コロリと即死するのだ。僕らは何かと意味やら理由やらを求めがちだけれど、このちっさい脳みそで思いつく意味やら理由やらに、果たしてどれほどの価値があるというのか。理解できないとか意味が分からないとか言って切り捨てるのはめちゃくちゃ簡単だけれど、その瞬間、思っている以上に大きなものを失っている可能性は忘れない方が良いと思う。というかたぶん本能的には分かっていて、必死になって理由を探すのも、どこからか沸き起こる不安を埋めるための儀式にすぎないのだろう。ウンコに砂をかける猫とまったく同じである。

うーん。彼女になんと答えれば良いのかますます分からない。

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