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不安について

こういうとき、メンタル弱い系の人のほうがむしろ心強く感じるのはわたしだけでしょうか。

普段から不安症を抱えている友人がこのところのいろいろで参っていないか心配になって連絡をとったら、とても元気そうで、いろいろ世の中に怒ってて、むしろ頼もしく助けられました。

そう、もしかしたら、不安に対する耐性というのが、あったりなかったりするのかもしれない、などと思います。もしかしたら、メンタル弱い系のひと(多分私も含めて)は不安、というものにすこしばかり耐性があるのかもしれません。不安というのは身の置き場がない状態。不安が襲ってきても自分の感情の波にのまれないように、そういうときはただ耐えておくしかない。そもそも、どんな時もその不安というのは自分の内側のもので、内側でどんな嵐が吹き荒れていても外からは見えない、見えないけど戦ってきてるから、長年の内部紛争で不安がなにか少しわかってる。そういうときほど、不安に取り憑かれているときほど、むしろそっちに引っ張られないように、一方で冷静に物事を観察もしてきたような気がします。そうしなければ生き延びられなかったから。結局それが訓練にもなってきたのかも。底に行き着いてしまえば、開き直るしかない、という地点があるような気がします。そこに無風の青空みたいなものがあったりする。

不安、というのは、人の感情を根こそぎ持っていってしまうところがあります。子どもや、親の介護を抱えている人も私の身の回りには多く、今の状況に不安を抱えて過ごされている。私自身も長いこと不安神経症があったので、自分自身が作り出してしまう不安で何度もおしつぶされそうになりました。だから、その感情はわかる、ただ、今私はといえば、子どもももう子供とは言わん年令になってるし、母親も遠くでピンピンしてるので、いわばとても楽なところから現状を見てるわけで申し訳なく思ったりします。でも、今のところは、だから少し冷静になれるところもあると思うので、聞いてください。まあ、私が思うところ、というにすぎないので、へえ、くらの感じで聞き流して見てください。

レッスンおやすみの連絡をしたとき、電話の向こうのお母さんの少なくない人数の人は少し震えるような、いつもと少し違う切り詰めたもののある声。あれ、多分昔の若い頃の私だったら、全く同じだったと思います。

特に子どもを持つ母親というのの不安、というのは、またちょっと独特なものがあるのかもしれません。自分だけであるほうがずっと楽。子を守る臨戦態勢に母親というのは本能的にあリます。ときにそういう不安が余計に子どもを窮屈にさせているとわかってても。私の不安神経症が収まったことの一因には、子育てが終わった、ということが有ると思っています。何かを乗り越えたわけではない、ただ、その時期が過ぎ去ったから。
(そういえばその時期が過ぎ去ることなかった母が、今朝方ネガティブ感情に負けて「風邪ひいてない?」と電話かけてきてました。気になってるのは風邪じゃないと思うけど。ああ、そうか、この不安は正当化できる、というところが、本能とは別に二次被害的に余計に不安を手放せない。)

生徒のお母さんたち、どうしてるだろう。なにか子どもたちと楽しいこと見つけて笑ってくれてるといいな。むしろ、子どもがそばにいてくれることで、救われてたりするかもな。

不安に掴まれているときというのは、どうしても冷静な判断ができない。でも、こういうとき押し込めてしまうと余計大変な思いに患われるというのもやってきたことなので、不安を感じる自分を認めたらいいと思います。不安は自己防衛本能だもの。その不安をそっと抱きしめてなだめておいて、自分の感じ方から別のルートも探してみる。

不安というのは、揺れる感情で、居場所がない。不安というのは防衛本能でそれ自体は必要な感情だと思います。でも、不安って意識が伴ってないと、どこへ連れて行かれるかわからない相棒なのです。今ここの判断が大事、ということが起こったとして、不安に引っ張られるときは、あまりいい方には導いてはくれない。自分の今までの経験からそう思います。私もしょっちゅう間違ってばかり。(弱いんで。)

そして、不安、というのは、自分の感情の中の産物なのに、なぜか、外の人とつるみます。
今、世の中で一番危険なのはウイルス以上にこの、地球を覆っている不安、というやつ。あ、あれ、千と千尋の神隠しにでてくる、「カオナシ」。人を飲み込んでいく化け物になってしまう。とりあえず、巻き込まれないように自分の不安をしっかり抱きしめて。

結局不安って、「わからない」ことだったりします。
わからない、から不安。もうそこでぐるぐるしはじめてしまうとその穴から抜けられない。

出先で確認のしようがない「火の元」のことでパニックを起こしそうになったあの頃の自分はそうでした。感情の中に余白のないレトルトパウチの、しかも、所定位置のない、じっとしていない、いられない不安。

どやって、抜けてったんだったんかな。

そう、か。不安という膨らんだらとんでもなく膨らむやつの他に、別の意識を育てる、ということ、なのかも。

レトルト、と書いたけれども、そのレトルトに自分を追いやっているのは、他でもない自分自身であって、外の状況ではない。だから自分次第ってとこがある。
不安て実は根拠とか実体とかってのは案外どうでもいい。
不安、という生きものにとって、だいじなのは、 ただ不安であるってことだけ。

でも実は、余白って、いくらでもあるもんで、
ただ、空が青い、ってことや、
いつもの洗い物するとか、なんか、よくわからないけど笑えるとか、
どうでもいいようなことでも、不安っていうレトルトパウチに穴を開けてくれたりするもんです。

穴さえあけば、割といろんな考え方や、まっとうな現実が見えてくる。
考えてみたら危険って、いつどこでどんなふうに襲ってくるかなんかわからないわけで、開きなおれば、案外、大丈夫、いや、根拠なんかないですよ、でも、大丈夫って思えたらいい。心の領域の話なので。ちゃんと、行き着くところはあるってこと。

原因を探すとか、何かのせいにするとか、で不安を外に放つと不安は増殖しつるむ。そうすると不安は水滴が水たまりに、水たまりが流れになって、洪水にすらなってしまう。怖いのは、それがどこかわけのわからない現実を生んでしまうこと。
何かを責める、ということがもう不安要素に火を注ぐ行為と認識したほうが良いかもと思います。だから、不安、もちろんある、あるけど、自分で耐えてみよう。

まあ、防げるものもあれば防げないときもある。
でも、不安に殺されるなんてほんとバカバカしいからね。

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!