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できないことのなかにある豊かさについて

できる、と、できない、の間を、階段の一歩、と捉えることは多くあります。

その階段の一歩上を目指して、目線をななめ上に向けて、あるいはその一歩を持ち上げる自分の足を見下ろして。できない、ができるに変換するその結果だけをイメージして。

音楽をまなび始めるといろんな崖に出くわします。

そこをすんなり通り抜けるもいるけれども、でも自分はそこで立ち止まってしまった。立ちすくんでしまった。いや、そんな壁や崖があちこちにみえるから、音楽を困難なものとかんじてしまう、そういうこともあると思います。

すんなりできる人と、苦労してやっとできる人の一歩は同じなのかどうか、いや苦労してもできないことだってごまんとある世界が音楽の世界です。できなければ意味なんてない、なんて思う人がいてもそれはそれでわかりますが、

長年さまざまな生徒さんや音楽する人と関わってきて、私は、一見みな同じにみえる階段一つのできるできないの壁が、人によってほんとうに千差万別であることに気がついてきました。それは豊かさなのだと。

それをどう伝えたらいいのだろう、と思っています。

例えばすんなりそこを超える人は、その周辺を見渡すことなく次のフェーズへ向かってしまうので、そこにある風景に意識すら向かないことだってあります。その分、そこで立ち止まった人はそこの景色や匂いや野辺に咲く小さな花や、関係性や、ほころびや、時には自分の幻影や、おどろおどろしさなどたくさんの陰影と付き合うことになります。

もしかしたら、それらと出会うことが本当の意味なのかもしれない。

私なんかもできないことのほうが多くて、掘りこんで掘りすぎて今に至っています。階段の手前で出会ったものと語り合ううちに実は全然別の回廊にたどり着いていて、何年も経ってみたら、遥か向こうにその階段はあって、それを楽に超えているものもあれば、未だ高いところにあるものもある。そして、でも、自分が歩いてきた回廊が自分にとって最適解だったんだ、と理解できる、そういう空間線っていうのがあります。

逆に私にもすんなり超えてきてしまったものもあります。
これを逆行するのは難しい。なぜなら意識にすら登ってこないことだから。

ただありがたいことに私は音楽を教えるという仕事の中でたくさんの人の音楽体験をともにすることができます。そこに一緒に立ち止まってその景色を見せてもらえる。ただの記号だったものが息づいてくる。過去に埋没していたものが生き生きと息を吹き返す。一緒に乗り越える方法を模索するか、音楽する人が模索を始めたら任せてしまう。

これはただ、わかれば良い、できればよい、弾ければ良い、それが音楽の階段を登っていくことだ、という教育方針では見えてこないことです。

ああ、その壁の前の苦しみのさなかにいる人にそれを伝えるすべがあると思うのも、傲慢なのかもしれない、とも思います。その人だけのそれは特権だから。

ああ、経験として、
その一段の落差、と思っていたものが氷解していく方法というのがあります。
それは、理解すること、自分をおいていかないこと。

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愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!