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分断されて見えてきたこと。

空気感は得意、でもそれだけでほんとに良かったのか?

空気感で伝える、とか、気配で寄り添う、とか、そういうのがどちらかというと得意は方なのかもしれないので、オンラインというやり方の前で、もう、触覚のない虫ころみたいなものに成り果てています。

でも、途方に暮れながら、一方で、空気感に頼った今までのやり方だけで本当に良かったのだろうか、という疑問も湧いてきました。

人と人の距離を置くから、その人の能動性が動きはじめるということがあるんじゃないか。逆に言えば、今まで私は私の小器用さで、相手が触覚を伸ばす前に答えを差し出してしまっていたのではないか、触覚の伸ばし方をつたえてこなかったのではないか、 と思い始めています。

あ、そう、また園芸の話で例えてしまうのだけど、

苗を植えるとき、苗から離したところに、肥料をあげると、根張りがよくなるってのはそれに近いかも。

それに。パソコンの向こうでその子のデフォルトにもどっている演奏。
それは決して悪いもんじゃない。

私はいらない飾りをつけてやっていたのかもしれないな、なんてことを。

一つ、これは色々深める良い機会なのかも。

でも、年をとったのか、自分の反応が鈍くなってきてるのもわかっていて、何か新しいことを取り入れて方向転換する視野の広さや、機転がわいてくるのも明らかにペースダウンしてきてる。でも、そうだ、きっと今までのその空気感に頼るレッスンはなにか偏りを生んでいた。それがどうも気になってしまうんだけど。

それ、結局今まで大した事やってこられなかったってことが露呈したってことだし、これからだって立派なことなんてできるわけがないし、めんどくさい。庭仕事をしながら、もういっそのこと、ずっとこのまま、仕事休み続けて、なんなら、もうやめて、庭仕事だけってのは、どうだ、などど耳元で囁く自分もいたりして、正直なんだか、もう仕事無理かも、みたいなときがふっとあったりします。
コロナ疲れね。これ。ああ、そういう誘惑に飲み込まれちゃいかん。

ささ、気を取り直して。

子どものレッスンも解像度をあげていく。

次々と新しいことをやるのではなくて、例えば一曲からうんといろんなことを呼び出してきて、浮き出してきて、音楽ってのの深さや幅を展開していく、みたいな、レッスンは子どもにとって面白いものになり得るかどうか。

多分、私がしたいのはそういうこと。

受け身にさせていたままでは、それはできない。

でも、そうか、オンラインやってみてわかってきたこと、子どもに近づきすぎていた。心地よくわかった気にさせてきてたのかもしれない。

わからない、というものに対しては徹底的に「理解」で返さなければならないのではないか。

画面の向こうで「わからない」まま演奏を突っ走っていく生徒を見てて、私はむしろこのままお互い空気でやり取りしあえない不自由を使って、やってみるのもありなんじゃないか、と思い始めています。

わからない。

同じことで、間違う。

まずそれを自分で気がつくことと、自分で乗り越えること。

できてないって気がつかないようにできさせてあげる、のが”技術”としてきてた。

でも直面して初めて本気で取り組めるわけで。

その直面し感覚で対峙する感じで取り組んでいくことができたら、たとえゆっくりと少しづつしが曲がこなせないとしても、リアリティが生まれてくるに違いないのでは。

そのときに、どうやって伝えあっていくか。
自作のテキストをもう一度掘り返しています。

せっかくそれなにり使え始めてきたこれ、見直すのか、と思うと途方も無いんだけど。やれる自信もないんだけど、でも見えてきてしまったことには向き合っていかんと。

能動性ってなんだ。

*写真・庭の薔薇が咲き始めました。バッタの子供がおひとり座っておりました。



愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!