見出し画像

届ける声と受け取る耳*。

一昨日、素敵な音楽会の余興で、絵本を読む係をしてきました。
マイクを通すか通さないか、ちょうど微妙な箱感で、
判断は若い人にお任せしようと思っていたのだけれど、
やっぱりいらないと思う、と伝えると、快諾いただいて、
生声での朗読になりました。

声が届くかどうか、というのは音量の問題で、
大方はこれが判断材料になりますが、
実は音量だけの話ではなくて、
聴く人たちの注意力や耳を開いていこうとする好奇心という要素もあります。

マイクで拾った音というのは、どこから音が出ているかわからなくなるから
目で見えている人と耳から入ってくる音との整合性があいまいになります。
そういうの、じつは小さい人ほど敏感で、そして小さい人というのは小さなポイントに好奇心を示すから、その整合性のないので気が散ってしまう。
そういうのをこれまでの体験上、予想できたことでした。

それから、聞きやすさ、というのも音量だけの問題ではなくて
その言葉の意味やストーリーがすんなり入ってくるか、とか
主人公に感情移入しやすい導線が引かれているか、とか。

(今回は、あいだにストーリーをイメージさせてくれる
効果音や馴染みの曲が即興で入り・・その絶妙さ!!・・・
こどもたちにも本当に楽しんできいてもらえたのじゃないかなと思います。)

たとえ、聞きづらくても、好奇心がくすぐられれば、
聞いている人の聴覚の感度は上がります。

チェリストのパブロ・カザルスは反戦の意を表すために、故郷カタルーニャから離れず、どこへも演奏に行かなかった、それでもカザルスの音楽をきくためにカタルーニャに集まった聴衆たち1万人の耳がカザルスの演奏を捉えた時の、その静けさ。

どこに向かって話しかけるのか、ということもあるだろうし。

マイクを通すと人は安心して、お隣さんと話を始めたりします。
お母さんがおしゃべりしていると、子どもも気が逸れてしまいます。
何度も経験してきたこと。
それで静かにしなさーいなんて怒っていました。
そこでおこるなんてね、みんなリラックスしてていいじゃない。
それを良しとできない自分を了見が狭いのだろうかと思っていました。


場というのはそこに集う人たちが一つになれるような、余白がいる。

何もかもオンラインでできてしまう世の中だからこそ、
ライブで、生音というのは貴重ですね。
良い時間を共有させていただいて感謝です。

*写真は音楽室のグランドピアノの譜面台に映った、窓の外のグリーンカーテン。


愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!