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水の脈

庭のみずみち、風みち

水や風の通らない場所は、澱む。
それは、音楽でもそう、組織でもそう。

西日本豪雨のあった年、私の住んでいる東温市は水難はまぬがれたけれども、やっぱり相当に雨が降りました。写真はそのころに庭にスコップ(大きい方)でガチガチほった水路。これ以前は庭が水浸しになっては、植物が根腐れしてしたり、植物に与えた栄養が流れてしまったり、もっと良くないのは土そのものが流れてしまうから、いつまでも土が育たないのです。それが、この手掘りの水路でずいぶん変わりました。水は流れている時でないとその表情がわからないから、雨の中合羽を羽織っての作業。その頃はまだ、矢野智徳さんというすごい人がいることも知らなかったけれど、そこは田舎者、野生の鼻を使って。
水脈や風の脈を読む矢野智徳さんのことを知ったのは半年くらい前で、youtubeを見ては、霧が晴れるような思いがして、勉強させてもらっています。

造成地の四角四面なまさ土の庭に高低差が必要、と思っていてそれは、自分でも意識していたわけではないけれど、改めて、水や風の道が必要ということだったんだと、今になって納得。景観の美しさは、そのまま気のとおりのよさ。

音楽でも、そう。

組織でも、そう。

水や風の抜けない場所は澱む。

同じ勘で、私はこの鼻で向きを確かめていきたい。

ところで私のリアル箱庭だった家の庭は、いまは実家のほぼ土木作業が大変すぎて、前ほどは手をかけられないので、それでも、手のかからない心地よい場所に変えていけたら、と思っています。

水がとどまってしまう、実家の水路

もう今更水田にも戻せず、畑にするには水捌けが悪く、粘土質のきつい実家の畑。傾斜地にあるにもかかわらず、田んぼにするために水平に作られたその土地は山側に向かってへこんでいて、水が抜けません。

でも、この困難さは、多くの学習の場でもあると感じてもいるのです。
水はものすごくシンプルに、下へ下へと向かいます、というか下にしか流れません。だから、その表情をみていたら、どうしたら良いか、はわかってきます。なにか、その思考作業はそのまま、無理のない音楽と人との出会いのところにも通じるものがあると感じていて、それは言葉にできるようなものではないけれども、体験として生きているような気がするのです。いつか、発展プログラムの必須科目で「みずみちつくり」が増えることになるかも・・

母が見かねて近所の方に頼んで大きな土木工事で、びっくりするほど大きい水路を両脇に作ったのだけれども、いかんせんどっちへも抜けない細長い水たまりが出来上がっています。

もう、沼でいいんじゃない?となかばあきらめていたここの、1番の水の抜けない原因は、上の圃場と下の圃場のあいだにある土管。
ある日に姉がここの土管を抜くぞ、とやってきて、ひゃー、と私でさえも引きました。けど。それから考え考えするのに、やっぱりこの水が澱んでいる状態が良いとは思えない。姉の言うとうおりだったと、気を取り直して、みずみちをさがしていこうと話し合いました。不思議とこういう時姉とは阿吽で合意。なんだろうねえ、父がどこかでみているのかねえ、などと。父だけでなく、この土地を見てきたご先祖かもしれんし、ここには元石上さまという神様も祀られていたというし。というか、何か道を模索していけば、どこかから必要な情報が降りてくる、という体験はよくあって、これも意識と無意識だか、身体と宇宙だか、との脈なのかもしれない。とにかく一人ではないというのが頼もしい。
姉と二人でできることなんて知れてるかもしれないけど。土管を抜くのは次の冬まで土が硬くなって難しいかもしれないし、他にもできることがいろいろありそうなので試してみようと。

この土管、水田の高さに水位を保った状態なので位置が高い。


中の圃場は雨が降るといつまでも水浸し。
セキショウ生えてるってことは常に水に浸っている。
いっそここはビオトープにして上の池から垂れてくる水を溜めておくのも良いかも。
だったらここに柳を植えよう。


曲線が好き。景観として心地よい、というだけでなく、風や水にとっても良いのだそう。

先週はしばらく雨が降らない日が続いたので、急遽実家に帰って、東側の道を掘っておいた。豆トラが活躍。やっと最近使い方に慣れて(傾斜面を耕したりかなり乱暴ではあるが)、健気に働く姿が可愛くなってきた。これでも傾斜がまだ足りないかも、これも雨がふってこないとわからないな。たのしみ。

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!