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人生で一度だけアポロシアター行きの入口に立った話

大学4年の終わり、大洋ホェールズの名で新宿の歩行者天国にて路上ライブをしてた頃。当時は街に出ていくことで可能性があると思ってとにかく人ごみの中でPRをしていた。先週のnoteに書いた東京コレクション出演の時代にあった、もう1つの話。

新宿の歩行者天国での出会い

当時、新宿の歩行者天国には可能性があった。ジャグリングやお笑い、ダンスなど。長井秀和が路上でスケッチブックめくってネタをしていたなんて信じられないかもしれないけど、間違いない。何度も言うよ、残さず言うよ、間違いないっ!そんな時代。

当時の我らが大洋ホェールズはお笑いを志していた。コントもやってたし、音楽ネタも少し始まってた。見に来てくれた仲間たちを巻き込んでみんなでYMOのライディーンをかけ、ダンスしながら行進したりもした。楽しみながらも可能性を探すためにもがいていた。

そんな時、ある男性から声をかけられた。萩原慶太郎という名前の男性だった。イベントプロデュースをしていると聞いていた(後にラジオ局に招待をしてくれたことがあったので、ラジオ局に入ったことを知った)。

彼は熱い口調で、アメリカ・ニューヨークのアポロシアターでやっている「アマチュアナイト」というパフォーマー発掘イベントを日本でも行いたいということを私たちに語ってくれた。

「第1回ジャパンアマチュアナイト」

我々はこのイベントに出場することになった。優勝すると本場ニューヨークのアポロシアターへ行くことができる。

第1回…確か場所はアサヒスーパードライホール。歓声、華やかな空間だったことを覚えている。優勝はTHE MANという2人コントをするコンビ。悔しかったがこの二人はとてもうまかった。納得の優勝。

優勝できなかったものの私たちはこの雰囲気を楽しんだ。お客もスタッフもすごい人数の大掛かりなイベント。大学生の自分たちには華やかすぎた企画だった。打ち上げもひとしきり盛り上がった。そこで知り合ったスタッフに会いに名古屋まで片道三日間、自転車をかっ飛ばしたこともあった。

第2回はほとんど関わりなくジャグラーの優勝で終わり、第3回のジャパンアマチュアナイトに我々は出場することになった。

第3回ジャパンアマチュアナイト

社会人になった2000年初春、第3回ジャパンアマチュアナイトが開催された。場所は池袋にあるアムラックス東京(2013年に閉館)。我々はすっかり板についたサンプラー(MS-1)を使ったコラージュネタを携え参加。今回は大洋ホェールズに、メンバーの友人だった石井君(現在もラ・サプリメント・ビバとして芸の道を歩んでいる)を迎え4人体制で臨んだジャパンアマチュアナイト。参加グループには過去の優勝者も含め、様々な路上パフォーマーが集結した。

ネタは当時お馴染みだった金八先生の音声コラージュをはじめ、サンプラー使いの名手だった石井君のネタも取り入れ、音楽も入れて笑いと勢いを出す新機軸に仕上げていた。なお、この本編で私はじっと座っているだけだ。

いよいよ大オチ。Get Wild終盤サビ前のイントロがいきなりかかる。おもむろにゆっくり動き出す私。私の頭にはヘッドセットが付いている。イントロに湧き上がる場内。期待のこもった緊張が走る。立ち上がるとサビが始まる。

Get Wild and tough
ひとりでは 解けない愛のパズルを抱いて

石井君の友人男性のどヘタなカラオケボーカルがサンプラーから流れる。サンプラーネタだった。笑いが起きる会場。舞台の真ん中に一人立ち口パクで歌う私。お客は立ち上がった私が歌っていると思いきや、よく見ると私のインカムの線はどことも繋がっていない口パクだったということを知り、もう1度笑う。そんなオチ。ノリのいいお客さんにも恵まれ大盛り上がりで出番が終わった。

結果はお客の歓声の大きさで決まる。ニューヨークの「アマチュアナイト」も同じ方式らしい。

4番、大洋ホェールズ……大歓声が起こった。私たちは優勝した。

賞レースでの初勝利。後にも先にも優勝はこの機会だけだ。

終了後、私たちは主催者に向け「アポロシアターには行かない」と告げた。今思えば企画の根本を揺るがすような暴挙。当時、パフォーマーには興味がなかった。ただ目立ちたかった、優勝の肩書が欲しかった私たち。そんな生半可なこだわりを萩原さんは快く受け入れてくれた。優勝賞品として用意されていた30万円をJTBの旅行券でもらうことになった。

優勝をきっかけに共同生活へ

僕らはすぐさま金券ショップで換金し、29万円少々となった現金を4人で山分けにした。私はずっと座って最後どこにも繋がっていないインカムを付け、立ち上がって口パクで歌っただけで73,000円あまりの賞金を手にした。

正直、企画したり、パフォーマンスしたメンバーには後ろめたさがあった。その後、その1番の中心メンバーが

「このお金を使って家を借りて共同生活をしよう」

と突然おかしなことを言い出しても後ろめたさで反対できず、

「部屋は別々」

という条件で石井君を除く3人で共同生活を始めることになった。

東小金井の一戸建てを3人で借りた。私と東小金井との出会い。今も東小金井に住んでいるのはこれがきっかけだ。ここから4年間の共同生活を始めることになる。これはまた別のnoteで話そう。

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その後、大洋ホェールズはバンドに傾倒していった。私は一切楽器が弾けないので居場所がなくなっていった。徐々に仕事も充実していき、芸能の道は趣味になっていった。華やかな世界で生きていくという考え方はあったがそれは仕事でもできると思い始めていた。当時パチスロ雑誌では顔出しで記事も書き始めていた。

翌年の第4回ジャパンアマチュアナイトには参加しなかった。場所は一気にグレードアップして赤坂Britz(2020年9月22日閉館)になっていた。今の音楽路線では到底優勝は難しいレベルの大きな大会に生まれ変わっていた。共同生活の楽しさや社会人の忙しさに押され音楽活動も縮小していった。

そして…

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2006年3月11日のライブを最後に大洋ホェールズは活動を休止(当時のブログがまだ残っていたのが驚き)。

そこから10年あまりの月日が流れた。

ジャパンアマチュアナイトの主催者である萩原慶太郎さんとは2017年に仕事で再会した。ラジオ局の中の会議室。名刺交換の後、話を振り出したら珍しい苗字だったから覚えていたと萩原さんは言ってくれた。歳は取っていたが相変わらず情熱的な方。今もFacebookを中心に繋がっている。

私の青春の1つである大洋ホェールズが最も輝いた日。私の胸の中で自信となって今も輝き続けている。

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