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ドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied㊵

生のコンサートでは“今まさにここで生まれる音楽”を共有していただける喜びがあります。その時間を1曲1曲切り取って“今まさに”のひとかけらでもお届けできたら!とお送りするドイツ歌曲の楽しみ Freude am Lied…

40曲目はアイスラー!…ひとかけら、届くかな?

ハンス・アイスラーHans Eisler(1898-1962) 作曲
ヘルダーリン断章Hölderlin –Fragmenteより
ある街に寄せてAn eine Stadt

                ソプラノ 川田亜希子 ピアノ 松井 理恵

私は長くおまえを愛している、心から母と呼びたい、
そしておまえに素朴な歌を贈りたい、
私が見たたくさんの祖国の街の中で
一番美しい街よ。

森の鳥が梢の上を飛ぶように、
おまえのそばで輝く流れの上を
軽やかに力強く橋がかかっている、
行き交う車や人々が音をたてている橋が。

私がその上を通り過ぎたとき魔法が私を捉えた、
魅惑的な遠景が
山々に輝き入ったとき。

おまえは去り行く者に
涼しい木陰を贈った、そして岸辺は去る者を見送り、
波間には愛しい街並みが
水音をたてて揺らいでいた。

潅木は花をたわわに明るい谷の丘まで、
またはやわらかく岸辺まで垂らし、
親しげな小道は芳しい庭園のもと
やすらぐ。

詩はベートーヴェンと同年生まれの詩人・思想家のフリードリヒ・ヘルダリンFriedlich Hölderlin(1770-1843)による。原題はハイデルベルクHeidelberg」。

 特別な曲です。作曲者アイスラーはナチによってドイツを追われれ、1938年から10年間アメリカで亡命生活を余儀なくされます。この曲はカリフォルニアの地で遠くドイツの美しい町ハイデルベルクに思いを寄せたものです。
 ゆったりとした3拍子の音楽は窓の外から聞こえてくるアメリカのもの。歌われるはドイツのハイデルベルクへの思慕。半音ずつメロディが高くなっているのは、じわりじわりと思いが募っているからです。続くピアノの間奏は同じメロディをなぞりつつも緊張感を増していきます。次の瞬間、ピアノの激しい連打によって、滑り込むように時空を超えてハイデルベルクの街に瞬間移動します。まるでドローンで実況中継されているかのように、鳥の目線でネッカー川にかかる橋が歌われます。人々が生き生きと行きかう橋の風景です。短い間奏のピアノの連打は馬車の車輪がガラガラと音を立てる様子を表しています。再びゆったりとした3拍子に戻り、その街で見た美しい風景を懐かしく歌います。続く間奏ではリズムが緩み、それはまるで、故郷への切望をなだめているかのようです。再び響くピアノの連打もとろとろと柔らかくなって、歌声部も旅人を見送る優しい街の様を。最後の節では、またゆったりとした3拍子にもどり、ネッカー川の対岸から見た街の風景が描かれています。その平和な風景が最後のピアノのスフォルツァンドで打ち砕かれます。現実に引き戻されたのです。

 ハイデルベルクは本当に美しい街です。ライン川の支流、ネッカー川に沿って広がるこの街はドイツ最古の大学を持ち、山の上の古城やバロック風の街並みが残っています。ゲーテやヘルダーリン、ショパンといった多くの詩人や芸術家が訪れ、この街をたたえる作品を生み出しています。
 私も留学時代、訪れたことがあります。結婚して間もないのに一人で留学することを許してくれた夫…。彼が遠くドイツに来てくれた時、二人で訪れました。ハイデルベルク城にはエリザベス門という門があります。フリードリッヒ5世が妃のエリザベスのために造ったものです。彼女は、お城の庭が大のお気に入りで、毎朝散歩をしていたそうです。彼女の19歳の誕生日の朝、いつものように散歩をしていると昨日まではなかったこの門を発見します。フリードリッヒ5世がわずか一日で作らせた誕生日プレゼントだったのです。微笑ましいエピソードですよね。この門の前で写真を撮ると二人にあやかって幸せになれると言われています。私たちも!ちゃんと写真を撮りました。ときどき喧嘩はしますが、ちゃんと仲直りをする幸せな夫婦です。エリザベス門のお陰かもしれません。


以下に以前この曲の入った曲集を歌った際書いた解説を張り付けてみます。

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ハンス・アイスラーHans Eisler(1898-1962)

ハンス・アイスラーは早くから音楽を学んだが、ウィーンの哲学者の父と、政治ジャーナリストの兄の進歩的な考えに影響を受け、社会主義にも関心をもった。18歳で第一次世界大戦のハンガリー戦線に徴兵され、その前線でオラトリオ「反戦Gegen den Krieg」を書いている。帰還後、新ウィーン音楽院に入学し、作曲科で正規に勉強をはじめるが、それに飽き足らず1919年から4年にわたり、シェーンベルクのもとで教えを受けた。後に社会的機能に対する見解の相違により、その師弟関係は終わりを告げるが、アイスラーは自分の才能を認めてくれ、基礎的な欠落を埋めてくれたシェーンベルクにおおいに感謝をしていた。
 アイスラーに多大な影響を与えたもう一人の人物に作家ブレヒトBertorto Brecht(1898-1956)がいる。彼は戯曲『三文オペラ』で成功して以来、共産主義色を打ち出した舞台作品を次々と書いた。アイスラーは1930年にベルリンでブレヒトと出会い、2つの舞台作品「処置Massnahme」、「母Mutter」を皮切りに、生涯続くことになる共同制作が始まった。ブレヒトの詩に付曲したものは、ともにナチによってドイツを追われた1938年からのアメリカでの10年間の亡命生活にかかれたものがほとんどで、アイスラーの歌曲の大半を占める。
 戦後彼は非米活動委員会に要注意人物として国外追放処分を受け、1948年にアメリカを去り、ウィーンに戻った。翌年にはブレヒトが活動を開始したベルリンに移り、ベッヒャーの詩「廃墟から立ち上がりAuferstanden aus Ruinen」に作曲、それはドイツ民主共和国(旧東ドイツ)国歌に選定された。ドイツ芸術アカデミーの会員にも選ばれ、ベルリン音楽大学で作曲のクラスを教えた。こうしてアイスラーは晩年の12年間をその達成のため終始努力してきた社会制度の中で過ごしたのである。
 アイスラーのように芸術家の社会における役割に関心を持ち続け、芸術を通して社会に貢献したいという明確な政治意識をもった音楽家は多くはいない。音楽において社会の要求に従うことと芸術家の自己表現とは両立しないという考えがあるかもしれない。しかし、彼のひたむきな目的志向はシェーンベルクから受けた技法的訓練と統御され、そうして生まれた作品は彼の偉大な仕事を雄弁に物語っている。
 
ヘルダーリン断章Hölderlin –Fragmente(1943年作)
 フリードリヒ・ヘルダーリンFriedrich Hölderlin(1770-1843)はテュービンゲン大学で神学を学ぶ。そのとき出会った哲学者ヘーゲルやシェリングとともに、古代ギリシャに憧れ、カント哲学に啓発され、さらにはフランス革命を見聞する。彼は牧師になることをやめ、家庭教師をしながら、当時の文壇とは流れを異にした作詩活動を展開した。特にフランス革命は彼に、世の破壊と再生、つまり<混沌からの創造>という詩的想像力を目覚めさせ、同時に古代ギリシャの黄金時代に対する憧憬もさらに強めるきっかけとなった。30歳ごろから彼の精神は異常をきたし始め、晩年は意識の混迷の中、テュービンゲンの塔に幽閉され、73歳の生涯を閉じた。彼の詩は古代ギリシャの詩形を活用した幻視的・黙示録的なもので、そこには、美しい祖国ドイツの自然な輝きとギリシアの神々が生動している。
 アイスラーはヘルダーリンの詩に果たして共感していたのであろうか。この疑問はヘルダーリンの原詩と、実際にアイスラーが選らんだ言葉を並べるとすぐにおこる。ほとんど改作といっていいほどの省略と字句の変更の量には唖然とさせられる。確かにヘルダーリンの詩は長大で付曲しにくく、歌曲になっているものは比較的短いものばかりである。加えて、ギリシャの詩形を用いているため、ドイツ語の文面だけで見た場合、アンバランスな言葉の並びが否めない。しかし、省略された部分にヘルダーリンの意図の核がみられる例から考えると、以下のブレヒトとのやりとりを真に受けることが正解といえるかもしれない。アイスラーはアメリカのカリフォルニアでの出来事をこう書いている。「ブレヒトは私に30ほど詩の入った紙挟みをわたし、『見てくれ、君の“使いものになる”のがあるかもしれないぜ』といった。私は眼を通したあと、『ブレヒト、すごいじゃないか!』というと彼は『本当か?使えるとおもうか?』といった。すぐ作曲して聞かせると、彼はとても満足した。」・・・“使える”とは乱暴な表現だが、これが彼の詩との向きあいかたであったのだ。つまり、彼は原詩の持っている考えをふんだんに開放し、もっとも中身の濃いと思われる考えを新しく組み合わせたのだ。この作業は言葉の濃度を増す作業になり、結果、研ぎ澄まされたアイスラーの(ヘルダーリンの作った世界とは異なる)世界が現れるのである。
 省略されたヘルダーリンの言葉には共通点がみられる。まず、アイスラーには意味のなかった、ギリシャの神々、地名などが登場する箇所は根こそぎカットされている。そして、ポジティヴな言葉や表現も細かくカットされている。アイスラーは亡命先のアメリカで、徹底的に絶望を味わい、そこには前向きな考えなど浮かぶ余地などなかったのであろう。その苦い思いは、この全曲に一貫して流れている。異国で故郷をおもいだし、残してきた友人の心配をし、戦争の暴虐の恐ろしい結末を予測し、自分のちっぽけな存在を嘆き、早急の帰郷を願ってやまない、亡命者の思いは―。演奏されるあてもない時代に創作されたこの歌曲集は、時代に翻弄された芸術家の声にならない叫びを集めたもののように思われてならない。
 

 


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