いびつだったり、歪んでたり、傾いてたり
いびつだったり、歪んでたり、傾いてたり。
見栄えはわるいかもしれないけど、それらはどこか愛と似ていて。
偏愛という言葉を改めて調べると、「ある人だけを、かたよってあいすること。」とある。
それって純愛とも言えるのではと考えはじめたが、こういうお話は考えても考えても、深みにハマっていくだけで答えなんてものはないのかもしれない。
しかしすこしだけ残しておこうと思う。
皆を平等に愛することができる人なんて本当にいるのだろうか。家族やすきなひとを優先的に愛する。それもまた人間らしくてすきなのに。
誰かを愛し愛されるからこそ、他者へ愛のお裾分けができる感覚が僕にはあって、愛されているのに愛されてないと思い込んでる人は他者からの愛を拒絶し、愛を与えられてることも知らないまま、大人になる。
それが愛なんだと知らないまま育つのはやっぱり切ない。
知らない本人からしたら切ないとも嬉しいとも思うことはないのだろうが。
一度ぬくもりを知った人は他者をあたためることができる。スープは冷めるが、愛というのはさめることのないスープなのかもしれない。
格好いいことを言おうとしたが、どこかチープになってしまった。それもまた僕らしくて僕はすきだ。
おまけのこばなし。
すこしだけ開けた窓からの風がとても気持ちがよく、元気な子供の声が聞こえるお昼過ぎ。現在14:30だから時間的にはおやつ前かな。おやつの時間のすこし前。おやつ前というバスの停留所があったら、僕は毎日のように降りていくだろうな。いつも一つ前のお昼過ぎという停留所で降りる彼女はすこし開けた窓からの風になびく髪からいい匂いがしそうで、いつも気づいたら彼女のことばかり目で追ってしまう。とある雨の日、いつもの時間なのにあの子がいなくて、無性に心配になって、彼女がいつも降りる停留所で僕は降りた。
夏を感じた日。
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