見出し画像

文化祭をオンラインで。本当の意味での”自由”を知る生徒たち。(筑波大学附属高校、2020年度桐陰祭について)

私ごときが語るには恐縮してしまうほど素敵な話題ですが、筑波大学附属高等学校について少しだけ語りたいと思います。IT企業で働く私がオンライン文化祭という素敵な響きに釣られたのもありますが、驚くことに(?)、私が筑波大学附属高等学校の第119回卒業生であるというのが最大の理由です。

校訓が「自主・自律・自由」というとんでもない高校でした。大抵の大人でも到達(なんなら理解)できていないであろう精神を18歳の学生に育もうとしてくださる。まともに勉強していなかった私にはとても難しい話でしたが、この高校時代が無ければ今の自分はあり得ない。感謝してもしきれないです。

校則はほぼ無し。制服も無し。自分の在り方は自分で決める。髪を染めようが遊ぼうが勉強しようが運動しようが、自主的であり自律的であれば良い。その上にある自由を求めて、選択的に行動する。(皆100点満点ではないでしょうが(私みたいなのも居ましたし)。目指す倫理観の形成は美しいの一言です)

そりゃあ、オンライン文化祭もやれちゃいますよね。「なんで?」とか「大丈夫なの?」とかは全く思いませんでした。記事の見出しを見ただけで「やるなあ」と。私が今そこに居てもアイディアに貢献できていた自信は全くありませんから、若者たちが優秀であることにただただ感動しています。


「恵まれているだけではないか」という意見もあるかと思います。確かにオンライン授業を全国に先駆けてどんどん導入している彼らには、全国の高等教育のモデル校としての立場があります。が、国立ですし、決して金銭的に余裕がある高校ではありません。(校舎のボロさを見れば分かる)

ただ、お金は無くても先生方には熱があります。授業や生徒に対して、そして教育そのものに対しての熱がある(だろうと思います)。モデルとしての責任感もあるかもしれませんが、先生方が教育の”在り方”を考え続けていることが、オンライン授業の話題からも強く感じられます。

当然その熱は様々な形で生徒にも伝わるし、生徒自身がしっかり持っています。桐陰祭をオンラインで開催することができる理由をあえて述べるならば、この素晴らしい熱と思想(すなわち「自主・自律・自由」の精神)によるところと思います。恵まれているのは確かですが、お金ではありません。


ほとんどの人にはイメージが湧かないかもしれませんが「桐陰祭をオンラインで開催しよう」としたのは、先生ではありません。生徒です。東京受験.jpの記事を読めばわかる通り、行動の主体は一切の誇張無く常に生徒です。先生には報告と共有をしていますが、指示を仰ぐ様子は見えません。

「新型コロナの影響が長期化する可能性があるので、文化祭の開催について考え直す必要がある」という考えを、桐陰祭の実務局長の間で共有しました。この考えはその後、「例年通りの文化祭の形態では確実に開催できない」というものに変わります。
ただし、まだこの時点では、実行委員のほとんどが例年通りの開催を望んでいました。なのでまずはオフラインでの開催を目指しながら、もしそれが叶わない場合のためにオンライン案を策定するという方針を取りました。

具体的には、次のような案が出ていました。
 ①完全オンライン開催
 ②対象者、またはライブなどの企画を縮小した形でのオフライン開催
 ③②同様に規模を縮小し、さらに延期したうえでのオフライン開催
この段階で委員会の指導委員会の長である先生とも相談し、開催方法を模索していることを共有しました。(※記事中ではここで初めて先生が登場)

そして総務の2人と他の3年生2人・2年生2人の計6名のチームが組まれ、オンラインという一つの開催方法を模索していく中で、その可能性に気がついてきました。例年通りの文化祭の楽しさを保ちながらも、オンラインならではの工夫がたくさんできることがわかってきたのです。そして、桐陰祭の根幹である「生徒が主体的に企画を作り上げること」はオンライン開催であっても実現できるのではないか、そう考えたときにこの可能性は確信に変わりました。

私にはこの姿が容易に想像できます。私は積極的に”こと”を起こす人間ではなかったので(あと単にアホだったので)こんなことはやれませんでしたが、同級生たちがどんどんこういう積極的な動きをしている様子に何の違和感も抱きません。私はそれを横目に、部活動に勤しんでいたと思います。

一方、どうでしょうか、記事を読まれた皆様は「先生が裏で糸を引いてるんだろう」「チームを組むような指示があったのだろう」「インタビュアーにただ自主的な形で説明したんだろう」と思われるのではないでしょうか?そう思えてしまうことには私も同意できますが、驚くことにそれはあり得ない。

桐陰祭というのは生徒が運営するものなのです。予算も、出し物も、生徒が決めて生徒が実行する。食事については区だか都だか単位で制約があり、その確認も生徒が自らやっていたと記憶しています(生卵はダメとか、屋内での火器利用は調理室以外禁止とか)。だからあり得ない。自主・自律・自由です。


さて。すこし急ですが、「自由」って何でしょう?コロナ禍で「自由」に文化祭を開催することって何だと思いますか?「思い出づくりだから自由にやらせてくれ」と通常開催を強行することは「自由」でしょうか?「コロナ禍だから縮小せざるを得ない」「開催を見送るしかない」ことは「不自由」でしょうか?

答えはノーです。私の考えるコロナ禍での「自由」は、生徒たちが自ら状況を読み、開催と見送りを丁寧に検討し、最適な回答を叩き出すことです。こんなことができる高校生は数知れず。更に、検討するに留まらず”オンライン開催”という前代未聞のチャレンジに傾倒することができる。これこそが自由です。

実際には「校訓って何だっけ?」でしょうし「モデル校はかくあるべきだ!オンライン開催だ!」などと外からの見え方や像を意識して行動している生徒はいないと思います。それでもごく自然に自分の在り方を自分で決められる、何がしたいかを粛々と検討できる彼らはとても自由に見えます。


長々と書いてしまいましたが、まあ言ってしまえば感動したんです。単に面白い取り組みだなあ~って思うのは勿論なのですが、生徒が自ずから動いて判断したであろうことは経験上分かっているので、努力と行動力が透けて見えてしまって誇らしい。私はただの会社員ですが、本当に誇らしい。

コロナ禍は本当に大変ですね。修学旅行やその他諸々のイベントが潰れたり、部活動の大会も中止になったりしているようです。伝統ある部活動の学校対抗戦(院戦)も中止になったと聞きました。本当に胸が痛い。いち大人として不甲斐ないこともたくさんありますし、支援したい気持ちでいっぱいです。

イヤなことがたくさんあるだろう中で、テーブルを見つめ、様々な方法を検討し、最適解を導き出して、今ある材料で出来る限りの最高を模索する。その姿勢にただ感動しますし、大人である私のほうが教わっているような気持ちになります。どんな状況であろうと、やることは変わりませんよね。


皆さん、頑張ってください。応援しています。予想外なことも起きるでしょう。よく分からない形で褒められたり、叩かれることもあるかもしれません。聞くべき声と必要のない声はよく区別できるでしょうから、焦らず、じっくりと、仲間たちと話し合い、想像できる最高を目指して、取り組んでみてください。

卒業生一同が、今年度の桐陰祭に興奮していると思います。国内中の高校生に誇れる形で、全ての大人たちに「こんな素晴らしい高校があるんだ」と教えてあげるつもりで、でも気楽に、自分たちの思い出作りに、楽しんでやってください。

それでは!

2020年度桐陰祭特設HP

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?