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CATSを映画に持ち込むことについて

お化け屋敷は怖いです。四川料理は辛いです。にもかかわらず皆さんはお化け屋敷に行ってキャーキャー叫んだり、四川料理屋に入って辛さに涙を流すんでしょうね。どうしてわざわざ怖いとわかっている場所に出向くんですか。どうしてわざわざ辛いとわかっているものにお金を払うんですか。全く人間というものは理解できません。

そういうわけで、CATSを見に行ってきました。様々な媒体でとんでもなく酷評されていた映画です。ビジュアルがあまりにも気持ち悪いと話題を呼び、上映開始後に映像の差し替えが決まるというとんでもな状態。

Matt Pearceのツイートの「平らで何の違いもない股間」とか「悪夢のような解剖学」のように、もう笑ってしまうような酷評の嵐です。これはもう見に行かないわけにはいかないでしょう。評判通りの酷作だった際にショックを受けるのは嫌なので、溜まったシネマポイントを使って実質無料で鑑賞してきました。

CATSに対して意見する前に私たちが知っておかなければならないのは、この映画にストーリーとか人生を生きるためのヒントとか、そう言ったものを求めるのはお門違いということです。なのでこの映画を「映画」としてみた場合、かなりの酷評になるのは頷けます。たくさんの猫の自己紹介を2時間見た後に、5分ほど猫の飼い方を紹介されて映画が終わってしまうのですから。そもそも演劇だからこそ許された「人間が猫の格好をする演出」を無理に持ち込む必要があったのかについても議論の余地がありそうです。

映像について触れます。僕が見た映像はもうすでに差し替え後の映像だったのでしょうね。評判ほど映像に対して気持ち悪さは感じませんでした。映像に関して奇妙さを感じたのはジェニエニドッツ(多分そのような名前。おばさん猫)が着ていた毛皮を脱いで全裸になった瞬間ですね。えええ、それコートだったの??あれ、じゃあ今は全裸なわけ?っていうか猫の全裸って何?猫に服着せてる人間ってそもそもいるんだっけ?あ、でも母猫は子猫にセーターを編んであげていたような…と思考は堂々巡りです。あとは、確かに平らでした。

楽曲については本当に素晴らしい。というよりも、この映画がどうにか映画の体裁を成すことができたのは素晴らしい楽曲たちのおかげです。個人的なお気に入りはスキンブルシャンクスのRailway Catの歌と、ガスのTheatre Catの歌。劇団四季のCATSも一度見に言ったことがあるんですが、この2曲は観客を巻き込んで展開される曲なんです。前者の鉄道猫の歌は曲調が終始明るく、観客も終始手拍子で劇を盛り上げます。後者の劇場猫の歌はもっと面白く、役者と観客とをつなぐ重要な役割を果たします。簡潔に説明するとかつて名優だったネコが、「当時喝采を浴びた当たり役を、もう一度この場でやって見せようか」と問いかけると観客が拍手でそれに応えるというものです。その拍手を自信に、彼はかつての当たり役をもう一度演じ始める…大井町のキャッツ・シアターでは、これらの曲はそれはもうライブ会場のような盛り上がりを見せていました。映画CATSも、「映画」ではなく「音楽イベントのライブストリーミング放送」くらいのテンションで楽しむのがいいのかもしれませんね。

結論

音楽がいくら楽しいと言っても、そして吹き替え版ではOfficial髭男dismの藤原さんのセクシーな歌声が聴けるとは言っても、CATSはやはり映画としては失敗したと言わざるを得ません。そもそもこの作品は実写化が不可能な作品だったのではと感じてしまいます。そもそもCATSの原作は、「ポッサムおじさんの実用猫百科」という作品なのですが、その中身を見てみると、

十一時三十九分 夜行郵便列車は発車間近
ホームの人々 ひどく様子が落ち着かない
「スキンブル どこにいるんだスキンブル
探してるのはシンプルか?」
車掌に赤帽 駅長のお嬢さん この大捜索 何とも仰山

というようにただの詩集なのです。映画CATSには納得のいかない部分はありますが、多くの批評家が述べているこの映画の気持ち悪さのうち一体どれだけが、トム・フーパーが監督したこの作品に帰結するのだろうと感じてます。同じ「ポッサムおじさんの実用猫百科」という詩集をベースに別の誰かが映画を作ったなら、今度はどのような映画ができあがるのでしょう。そもそもCATSの素晴らしい実写映画なんてものがありうるのでしょうか。音楽の力を借りて、ストーリーとかメッセージとか、そんな深いことを考えずに、COUNTDOWN JAPANでいうDJダイノジのような感じでただただその時を楽しめればいいんじゃないでしょうか。

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