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声の主を求めて #シロクマ文芸部


「逃げる夢をずっと見続けていてね」

電車のボックス席で向かいに座ってきた老婆が話し始めた。

「私は、あんたくらいの娘だった頃からずっとずっと逃げる夢を毎晩のように見るのよ」


登山が好きな私は、ある休日山へ向かう電車へ乗っていた。

ボックス席に揺られながら眺むる風景は、都会と比べて色が少なく田舎ならではの平凡なつまらなさがあり、それが私を安心させた。

いつのまにか向かいに老婆が座り、
突然私に話しかけたときは、
背中にハサミを当てられたかのような怖さがあった。

「ごめんなさいね。突然話しかけて」

老婆が話すには、若い頃はこの辺の山の麓に住んでおり、ある日山の中で迷ったのだという。

「その山はよく知ってる山だから迷うはずないのに、なかなか家に辿り着けなかったの」

そのとき、見覚えのない山小屋があったそうだ。

「山小屋で何かが私に手招きしてるの。こっちへ来いこっちへ来いって」

温かく深いその声は魅力的で、ただ妖しさもあり、
そっちに行ってはいけないと本能では分かりながらも足が動いたという。

「駄目だ駄目だ。私は何か分からないそっち側に行ってしまう、と思いながらも足が止まらず、山小屋に入りそうになった時にシャンシャンと鈴の音がして、我に帰り足を止められた」

その音は山へ修行に来ていた修験者だったという。

「山小屋の声の主は、確か顔が赤かった」

修験者が言うには、それは天狗だったんじゃないか、というそうだ。

「私は怖くてもう山に入れない、と思って逃げるように里に降りた。そのあとトントンと急にお見合いの話が決まり、私は違う村へ逃げるように嫁いだ」

電車はカタンカタンと無機質に進む。
他の席は青年が1人座っているくらいでガラガラだった。

「嫁いですぐに、あの夢を見始めた。逃げる夢を」

黄土色だった老婆の顔は少し赤みを帯び、心なしか目の光が灯ったように見えた。

「こっちへ来い、こっちへ来いというあの声から私は必死に山を降りている夢を見るのさ」

無人駅に到着し、私たちの他の唯一の乗客が降りていく。

「主人にその話をすると、疲れているんだね大丈夫だと言って抱きしめてくれた。私の見ている夢を理解してくれなかった」

先月、ご主人は亡くなったそうだ。

「主人が亡くなってから、その夢を強く強く鮮明に見るようになった。あの美しく柔らかい声が私を呼んでいる。もう50年以上も前なのに、私はずっとその声に呼ばれている。
私はハッとした。きっと、長年連れ添った主人より、あの声の主を愛しているのかもしれない、と」

老婆は恍惚とした表情となり、見間違いか、20歳にもならない少女に見えた。

「私はね、これからその声の主に会いにいくつもりなのよ。あの山に行けば会えると思って。今度は逃げないで、会いたいなって」

ガタンと電車が揺れ、私の荷物が床に落ち、拾って起き上がった瞬間には、もう老婆はいなかった。


車窓から見える景色はさっきより色付きが良く思え、私をワクワクさせた。

私も聞いたことがある。
こっちへ来い、こっちへ来いというその美しい声を。

山で遭難したとき幼子だった私は、
声の主がどこの山にいるか分からず、色んな山で登山を繰り返しては探している。

もしかしたら今日の場所にいるのかもしれない。

期待で色めいた私の胸は、空のように鮮やかな色をしているに違いない。


目的の駅を降り、山へ向かう。

声の主を求めて。



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