見出し画像

「言語化」と支援教育

支援教育って広すぎる

 最近、用事があって「支援学校小学部」レベルのスキルが必要性を意識するようになりました。ちなみに私は「支援学校教諭」の免許は持っていますが、ベースになる「基礎免許」が「高校教諭」なんです。「小学校教諭」の免許さえ持っていない私には「支援学校小学部」未知の世界です。

 考えてみると私が持っている「支援学校教諭」というのはめちゃくちゃ幅が広い世界で、私が聴覚支援学校や視覚支援学校に行くことになったら、もうそれだけで言語世界が違うので超絶大変だと思います。以前、聴覚支援学校の先生とご一緒したら、自然に手話が出てくるんですね。私は教職課程の聴覚支援の講義で習った手話さえもほとんど出てこない(というか素人には結構指の動きが細かくてそう簡単にはできないです)ので、異次元だと思いました。しかも、支援学校って幼児部から高等部、専修課程までいろいろで、自分はほんの一部しか知らないんです。

言語化されていない「支援学校小学部」の世界

 そんな時に私より少し詳しい方にいろいろ教えていただいた時にふと「小学部の世界ってさ、奥が深いんだけど、当の小学部の先生ってその奥の深さをあんまり言語化してくれないんだよね」といわれたのが心に残りました。

 もっというと、弁が立つ高校の教員と比べても、小学校の先生自体があまり自分たちの仕事を大きく話していることは多くない気がします。だから、「あれ、これって小学部レベルのことだと思うんだけど、小学部の先生ってこれどうやってるんだろう」と思っても、それがなかなか見えにくい。

 いや、たとえば、障害のない子が幼稚園で「色」や「数」の概念を遊びや活動の中で自然に身につけるとして、情報の取り込みが苦手で発達特性があったり、幼稚園や保育園の教育を受ける機会がそもそもなかったりして、その概念を持っていない場合でも、支援学校の小学部でそういう基本的な概念を身につけてもらえることが多いのです。

 色ってなに?

 数ってなに?

 これを教えられるって実はすごいことなんだと思います。

 同じくらいの障害を持っていても、早いうちに支援教育を受けた子たちは、できること、知っていることが多い、と、私は感じています。だからこそ、高校や支援学校高等部ではもっと先の学習につなげていくことができます。

 じゃあ、なにをやっているんだろう?今は興味を持ちながら調べています。

しかし、支援は言語化でもある 

 その一方で、支援教育というのは、言語化の作業でもあります。

 最近、私自身がある人に話をしていて、言っている自分がハッとした言葉があるのですが

「ヘレン・ケラーの手に水を注ぎながら、何度も手のひらに”WATER"と書いてことばというものの存在を教える、という有名な話がありますよね、ことばというものを与えて初めて怒り暴れるだけだった少女が学ぶことを知るんです」

 ヘレン・ケラーは盲ろう者として初めてのハーバード卒業生となるわけですが、アメリカではむしろ本人以上に彼女を育てたアン・サリバンという女性が評価されているように思います(日本では「奇跡の人」はヘレン・ケラーと考えられていますが、英語圏では一般的にはMiracle Workerとはサリバンを指します)。そして、彼女がした最初の偉業は「盲ろうの少女にことばを教えたこと」とされています。

 特に発達障害、知的障害、視聴覚障害がある人は周囲から「なんとなく周りを見て学ぶ」ことが難しいです。そうすると、結果的に「言語化して伝える」ことをしないと身につけることが難しいことがたくさんでてきます。

「無意識」を「意識」に替え、さらに「ことば」に替える

 具体的にいうと、私は高校の教員なんですが、一方で「いろいろな理由で小学校・中学校で支援教育を受けていないけれど、支援を受けていないためになんらかの困りごとのある生徒」というのによく遭遇します。

 私は「支援教育を受けてきた高校生」には支援学校高等部で出会ってきているので、障害があってもできることがたくさんあることは知っていました。が、一方で、「受けるべき支援を受けていないためにできないことがある」子というのもいるんですね。

 定型発達の子というのは周りを見てなんとなく合わせていきます。ところが、そうでない子はそれができない、だから支援が有効なのですが、「ん?これは支援学校だったら小学部的なことが抜けてないか?」という場面でどう対処するか。

 まず、そこでその子に対し自分が無意識的に期待していたことを意識します。

 たとえば、「チャイムが鳴ったら席につく」とかでもそうですね。「教員が板書している時は黒板を見る」もそうですね。定型発達の子どもたちが小学校・中学校で「なんとなく」身につけていて、高校教員の自分が「なんとなく生徒ができるものとして期待している」ことがどれなのかを意識的に考えます。意識した上で、「着席することそのもの」が大切なのか、「みんなと一緒」であることが大切なのか、「学習する体勢」を作ることが大切なのか、「気持ちの切り替え」が大切なのか、自分の中で整理をします。

 それをさらに「ことば」として相手に伝える。その子に自閉傾向があれば比喩表現が苦手です。知的傾向があれば難しい構文は苦手です。視覚支援が必要かもしれないし、手話や指文字が必要な子もいます。

 …とまあ、ここまでの作業を小学部の先生は黙ってしていて、中学や高校の人間はこれだけのことを「身についたもの」として無意識的に生徒に期待してしまっているわけです。

もっと知られていい支援教育の役割

 最近、私は闇雲なインクルーシブ教育の礼賛の背景には、支援教育に対する誤解や無理解、差別などがあるのではないか、と、感じることがあります。どの教育にも光と影がありますが、インクルーシブ教育も例外ではありません。支援教育にもメリットがある、ということも知られていいと思います。

 支援教育というのはこういう一つ一つをその子に合った方法で丁寧に学習していく作業で、支援教育だからこそ身につくことも存在します。

 そうしたことももっと「言語化」されていいのではないか、と、私は思います。 

タケヤマシロウ先生のこと

 この文章を書いていて思い出しました。「なんとなく英語話者」だった私に英文法や語彙を叩き込んでくれたのは、思春期に1年だけ通ったとある地方都市で「コスモ学園」なる私塾を開いておられたタケヤマ(タケイ?)シロウ先生(漢字忘れた)のおかげです。もうその私塾はないし、その先生が今、どこにいるのかもしれません。生きておられても相当なお年かと思います。

 ですがね、彼の最後の授業でその「奇跡の人」の”Water”の映像を見せてくれて、「ことばを獲得するってこういうことなんです。だから僕は皆さんに英語ということばをプレゼントしたかったんです」といわれた、ということを、ふと思い出しました。

 先生、今、私は先生がくれた「ことば」でメシを食っています。もし、どこかでお会いすることがあったら、心の底から感謝をお伝えしたいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?