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初めて大正ものを書いた作家の『帝都の復讐姫は作家先生に殺されたい』コメンタリー&資料(前編)

はじめに

noteさんでは初めまして、ライトノベル・ライト文芸作家の遊森謡子(ゆもりうたこ)と申します。
2012年にデビューし、電子書籍を含むと20作品ちょっと、世に送り出しました。地に足をつけて頑張る女の子をヒロインにした、お仕事もの・令嬢もの・中華後宮ものなどが得意です。

今回初めて、一度書いてみたかった大正ものに挑戦しました。
かつて小説の賞で佳作をいただいたことが2度あるんですが、それが中華ものと和・中折衷もので、もしかして私の文体、中華和風に向いてる……? と思ったからです。先に中華風に挑戦し、次は和風だ!
学生時代に歴史をたいへん苦手としていた私ですが、2023年秋から作品のためにあれこれ調べ始めてみたら、楽しくて楽しくて。当たり前のことながら、中華ものより圧倒的に資料が多いため、狙ったものが見つかりやすいのも気持ちよかった。
そして、この面白さを伝えたい! とコメンタリーを書きたくなったのです。いつか改稿する(?)時の備忘録も兼ねて。
というわけで、歴史に詳しい方なら「遊森はこんなことも知らなかったのか!?」と驚く内容も多々含まれるかと思いますが、大正初心者の私のような方が楽しんでくれると信じて、書いていきたいと思います。
ヘッダーの写真は、旧帝国図書館(現国際子ども図書館)で遊森が撮影したものです。

※ここから先、『帝都の復讐姫は作家先生に殺されたい 浅草十三怪談』のネタバレを大量に含みます。作品はnote創作大賞に応募中で、7月31日まで読者応援期間ですし、先にぜひ読んで! 薄い文庫本くらいの長編です※

マガジンにまとめてあります↓

関連年表

まず最初に、関連年表を貼っておきます!
本当はこの前の部分もあるんですが、一番メインになりそうなところだけ。

『帝都の復讐姫は作家先生に殺されたい』関連年表

序幕と第一幕は『浅草十二階』から

八角形の、煉瓦で作ったエンピツみたいな十二階建ての塔が、明治・大正の低い家々の間からにょっきり。何とエレベーターつき。それだけでこのモチーフ、気に入ってしまいました。
凌雲閣りょううんかく、通称・浅草十二階です。

明治の初めは高い建物がなかったわけですが、浅草寺五重塔の改修工事のために足場を組んだ時、お寺の収入にもなるしお金をとって誰でも登れるようにしよう、とやったら大評判になったとか。初めて高いところに登って見た眺め、気持ちよかったでしょうね。その流れのブームなのかどうなのか、明治23(1890)年に凌雲閣は建てられました。
エレベーターはすぐに故障しちゃったらしいですけど……
中にはお店や展望台があって、芸者さんの写真を貼って美人コンテスト、なんてのもあり賑わったそうですが、だんだん飽きられて客足も遠のき。
そして作品中にも出てくるように、「十二階下」といえば私娼窟、と、目印みたいな扱いになってしまったわけです。

私、この陰の部分にも大いに惹かれてしまって、物語のラストシーンを浅草十二階に持ってこれないか……とかなり考えたんですよね。『浅草十三怪談』とサブタイトルをつけたくらいなので、千代見姫の力で幻の十三階とか作れないかな、なんて。
この物語の三年後には、浅草十二階は消える運命にあるため、余計にそう思ったのかもしれません。
大正12(1923)年、関東大震災。浅草十二階は上の方が折れてしまい、危険だということで、軍によって爆破解体されてしまったのです。現在、そこには記念碑だけが建っています。

ちなみに、震災の前と後とで、東京市はだいぶ様子が変わります。どちらを舞台にするかも迷いどころだったんですが、やはり浅草十二階が「ある」時がいいな、と「前」を選びました。
読んだ資料を貼っておきますね。当時の有名人から見た浅草十二階の様子がわかって、とても面白かったです。
細馬宏通『浅草十二階 ー塔の眺めと〈近代〉のまなざしー』(青土社)

そして……
物語の序章タイトルにも「消滅した十二月」と「十二」が入っています。
明治5(1872)年、西欧に合わせて改暦、というのは本編に書いた通りですが、それが十二月で、たまたま浅草十二階といい感じでシンクロしましたねー。
改暦の大混乱について遊森が学んだのは、2023年秋に国立歴史民俗博物館で開催された『陰陽師とは何者かーうらない、まじない、こよみをつくるー』という企画展に行った時でした。

多くの陰陽師は、明治3(1870)年「天社神道廃止令」で身分と特権を剥奪され、吉川家(身分を失った後も公的に暦業に関わっていた)などの例外をのぞいて、その後どうなったのかあまりよくわかっていないのだそうです。
改暦で消滅した十二月という『隙間』と、表舞台から消えた陰陽師たち。ここに創作の余地があるな、とワクワクしました。
一般の人々は改暦をなかなか受け入れられず、暴動まで起きたとか。しばらく新暦は「天朝様のお正月」、旧暦は「徳川様のお正月」という感じで、両方あったみたいです。福沢諭吉が太陽暦の便利さ・合理性を宣伝しつつ「(受け入れない奴は)無学文盲の馬鹿者なり」って書いてて、「強火!」と笑ってしまいました。

国立歴史民俗博物館は千葉県の佐倉市にあり、関東民でもなかなか気軽には行きにくいんですが、この企画展の図録は博物館に行かなくても買えます。めちゃくちゃ充実した資料ですのでオススメです。

あと、年表に書き忘れてますが、大正5(1916)年、警視庁保安課長・丸山鶴吉の指示による私娼撲滅策(浄化作戦とも)がありました。これも史実ですね。
芸者や遊女になるには警察に許可をもらわなくてはいけない決まりだったんですが、許可をもらっていないのが私娼です。表向きは「銘酒屋」「新聞縦覧所(新聞が閲覧できる)」「楊弓場(射的場)」を装って、奥では私娼が客を取る、という店が、十二階下だけで600~700戸もあったとか。
大検挙により、推定3300人いた彼女たちは転職……したと見せかけて、こっそり続けてた人も多かったようです。
丸山鶴吉は、私娼の稼ぎで暮らしてた男たちに脅迫されたりしたらしい。
資料を貼っておきます。当時の写真もたくさん載ってます。

そして、生活面。
まずは花墨について。花墨は小学校には入学しましたが、四年弱しか通えていません。明治40(1907)年に義務教育は4→6年になっていて、就学率も100%近かったのに(泣) 中学校の教科書は悧月にもらいました。小学校の教科書は、さすがに横須賀の実家に置いたままですが(弟妹が使ってるかも)、きっと花墨のためにどこからか仕入れてくれたと思う。級友からとか。
おかげでバリバリ勉強した花墨は、泉鏡花(1873~1939)の小説とか読んでます。元々、頭のいい子です。
次に悧月について。ファッション(着物の中にスタンドカラーのシャツ、袴)は、『鬼滅の刃』をお読みの方は愈史郎くんがそういう格好してた、といったら通じるかも。せっかく高等学校生なので、本当は学生服姿にしたかったけど、さすがに私娼窟にネタ拾いに行くのに学生服はないだろという(笑)
あとは電気ですかね、花墨の住んでいた家には電灯が一つしかありません。当時は「一戸一灯契約」で一ヶ月の料金を支払っていました。他の電気製品を使いたい時は、天井の電灯を抜いて別の製品を繋がないといけなかったらしい。
二人が別れた後、第一次大戦中の大正7(1918)年に二又ソケットが発売され、複数の電気製品が使えるようになりました。
生活に関することは、『大正ロマン手帖』という本に略年譜としてすごくわかりやすくまとまっていて、参考になります。私はこれをコピーしたものに、自分的に必要な情報を書き加えて、一枚で見られるようにまとめました。

色々書いてしまったー!
まあ序幕と第一幕、最初の部分ですからね、どうしても。次からはそこまで書かない、はず……いやでも第一次大戦後はまた様子が変わるんですよね(笑)
のんびり書いていきます。
興味がおありの方は、ぜひフォローなどしていただいて、一緒に楽しみましょう!
本編もよろしくお願いします。

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