自分の加害性を隠して被害者だという人って

さあ書いてみようと開いて腕止まる。
エッセイが読んでて楽しいので、自分も書いてみようと思い、パソコンを開くのですが、いざ自分で書こうと思うと、目にした人が「ためになるなぁ」とか「なるほど」と思う事を自分は書けるかどうか、首をかしげてしまうんですよね。

それで、自分が読んでて楽しかった本の語り口はどんなものだったんだろうと意識して読み返すと、こちらに語り掛けてるトークショーに近い文体で、読んでいてほうほう頷いている間に読み終わってるんですね。
呼んでいて気になったキーワードなどは、ネットで検索して似たコラムや本はないかな?と探すんですが、本を読んでいる時の瞬間は、著者が自分の傍にいて、お話してくれているんです。
いいなぁ、これいいなぁと、まねしようとしてこうやって打ち込んでいるわけですが、ああ、最初の所で書くと言っているのに今は打ち込もうという気持ちになっているし、そもそも全部打ち込んでいるので「言う」という表現も統一性が無い。
だらだらとした日記みたいなものをつくって未来の自分が読み返したらためになりそうなメモを残そうと思っているだけなのにいざ、こうやって形にしようとすると人の目を意識してしまう。
面白いなぁ……。

何かをここに残そうと思いネタをひねりだそうとした結果、自分自身は最近平和そのものなのですが、ツイッターの知り合いさん経由で、自分悪くないあいつが悪いと、連呼してる人(通称被害者ぶる人)を発見しまして。
内容は、古今東西起きてきた事(自分も悪いところはあったがその何倍もあっちが悪い、自分は可哀そうだ同情してくれ系)の再演のようなものなので、各々それっぽい人の言動をここに当てはめても全く問題ないものだったので割愛するとして、今自分が それを見て何を感じて考えたかをつらつら打ち込んで、文字うちの練習としたいと思います。

完全に対岸の火事を見物してるやじうま気分ですが、その人のツイートを見ていきながら「自分の非をちゃんと受け入れずに他人のせいにする時って、当人が受け入れ態勢不十分だから起きるのかな」とか「自分もそういう時はあったな、当時は自分が完全被害者でと思ってたけど、冷静に考えると、どちらも加害者だったよね」あとは「たいてい、こうやって叫んでいる時って楽になりたい、君は悪くないと言って欲しい時だったね。自分の場合は自分の間違えてる所は怒ってほしいけど、相手も悪いと言って欲しい気持ちがいっぱいあったな」等、色んなことを思い出してました。
自分が今の結論にこうして至っているのは、別件で被害者ぶる人の餌食になりかけてもだえ苦しんだ結果だったりするので、この経験をする前に見かけてたら、自分は直接の関係性ないのに感情的になって怒ってたかもしれません。
しかし、今回の件は完全に自分は無関係の他人事なのに、被害者ぶる人がどうなっていくのか気になるのも、自分の中ではとても不思議なんですよね。
被害にあった事がある関係で、被害者ぶる人は不得意なのですが、不得意だからこそ、その心情と対処方法の研究がしたい自分がいるのか。
それか、もしかしたらですが、その人がいつ、他者(私)が気付いたような事に気づくのか、それとも別の気づきを得るのか、はたまた、自分は悪くないもん教に入り浸り続けるのかどうなるのか、その結末をリアルタイムで見て見たいからかもしれません。

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