紫苑 時雨

生きていたはずの彼。                                                    死んでいたはずの私。

生きるべきだった彼。                                                    死ぬべきだった私。

未来がない彼。                                                               未来がある私。

 私にはあの人を想う資格なんてない。あの人に触れることもできない。私が彼の未来を奪ってしまったから。そして私はそのことを心の奥に閉じ込めてしまった。この罪はきっと償うことさえできない。

 

 「ただいまー。」   

私は一人暮らしだ。もちろん返事なんて返ってこない。というか、返ってくるはずがない。そのはずなのに……。   

「おかえりー。」         

誰もいないはずの部屋から爽やかな男性の声が聞こえてきた。空耳かと思ったけど泥棒の可能性もあると思い、いつでも警察に連絡出来るようにしてから恐る恐る声のする方へと向かった。

「だ、誰かいるの?」    

リビングを覗くとソファには男性が座っていた。 

「おかえり!奏ちゃん!」      

その男性とは初めて会った。初対面のはずなのにこの男性は私の名前を知っていた。私には無縁だと思っていたがこれがいわゆるストーカーというやつなのか。普通なら怖いと思うだろうが私はやけに冷静だった。 

 「あ、あなたは誰?」                

そう言うと男性はニコッと笑った。なぜか少し寂しそうにも見えた。                                     

 「僕は古賀直樹。この前ちょっと色々あって死んじゃったんだけど。」 

 その人の足元を見るとたしかに少し透けていた。 

 「試しに触ってごらん。」 

 私の手は男性の体に触れることなくすり抜ける。   

「ちなみに僕は君にしか見えてないよ。どうしてそうなったから分からないけどね。」  

訳が分からなかった。私には霊感がない。今まで幽霊なんて見たことがなかった。そもそも信じてすらいなかったし。  

「僕どうしてか君のそばを離れることができないんだ。だから僕もここに住んでいいかな?絶対に邪魔はしないから!」        

普通に考えたらいくら幽霊で触れることができないとはいえ知らない異性と暮らすなんて嫌だろう。だけどこの人と話してるととても安心して少し切ない気がした。私はもっとこの人を知りたいと思った。

「私から離れられないならしょうがないよね。古賀さんだっけ?よろしくね。」       

「ありがとう!これからよろしくね!直樹でいいよ。そっちで呼んでくれると嬉しい。」   

 「じゃあそうするね。な、直樹。」   

男性を下の名前で呼ぶことが少ないから少し照れくさかったけれど少し距離が縮まった気がして嬉しかった。

 それから幽霊、直樹との異様な2人暮らしが始まった。始めは少し不安だったけれど直樹は優しくていつも笑顔で出迎えてくれた。直樹との時間はとても楽しかった。        だけど私には1つ気になることがあった。それは直樹が死んでしまった原因だ。だけどあくまでも少し前に知り合った人。どこまで踏み込んでいいのか分からなかった。

「どうしたの?何か悩み事?僕でよければ聞くよ。」

「ううん。そういうわけじゃないの。気にしないで。ありがとね。」

「……それならいいけど。」

やっぱり聞けなかった。踏み込みすぎて嫌われたら嫌だ。怖い。

「僕はね、無理に話してとは言わない。だけど僕は君が悩んでる顔を見て何も出来ないのは嫌だな。だから僕に話せることなら話してほしい。」

その言葉を聞いて胸が痛んだ。いつもの優しい笑顔なのにどこか寂しくて。初めて会った時私に向けた笑顔と同じように見えた。

「あ、あのね。どこまで踏み込んでいいのか分からなくて聞けなかったんだけど、直樹ってどうして死んじゃったの?」

「それで悩んでたの?やっぱり奏ちゃんは優しいね。僕は車に轢かれちゃったんだよ。少しぼーっと歩いてたら車が突っ込んでくるのに気づかなくて。だから奏ちゃんはちゃんと前を向いて歩かないとダメだよ。」

交通事故……。そうだったんだ……。私もこの前交通事故に遭った。事故周辺の記憶は抜けてしまったけれど体はほぼ無傷だったし特に問題がなかったからすぐに退院できた。だけどその時死んでいてもおかしくなかったと思う。急に怖くなり手がカタカタと震えて止まらなかった。

「ごめんね、こんなこと話して。大丈夫、大丈夫だよ。」

オロオロしながらも優しく声をかけてくれた。

「ち、違うの。実はこの前私も交通事故に遭ったらしくて急に怖くなっただけなの。私こそ急にこんなこと聞いてごめんね。」

「僕は大丈夫だよ。気にしなくていいからね。」

直樹の言葉に安心してそのまま寝てしまった。



 次の日、朝食を食べている時に直樹はニコニコしながら声をかけてきた。

「今度一緒に買い物行こうよ!僕は周りには見えないから会話とか出来ないけど。奏ちゃんの服とか見に行きたい!」

「たしかに最近あんまり買い物に行ってないからいいかも!今週末にでも行こうか!」

「うん!」


 週末に私と直樹はショッピングモールに行った。直樹が選んでくれた服はどれも私好みで可愛かったから予定よりも多く買ってしまった。

 帰り道、横断歩道で止まっていると電柱の所に花束が置いてあることに気づいた。綺麗な紫苑という花だった。

 今日は久しぶりに出かけたから少し疲れたなぁ。

「今日はありがとう!奏ちゃんと出かけるの楽しかった!」

「私も楽しかった!直樹が選んでくれた服どれも可愛かったし!また行けたらいいね!」

「……うん。」

少しだけ元気がないように見えた。

「どうかしたの?」

「う、ううん。何でもないよ。ただ今日が楽しくて少し寂しくなっちゃっただけ。ほら、今日はいっぱい歩いたし疲れたでしょ?まだ夜ご飯にするには早いし少し寝てきたら?」

そう言われると急に眠気が襲ってきた。

「じゃあ少しだけ寝ようかな。おやすみー。」

「うん。おやすみー。」


 久々に夢を見た。私が男性と手を繋いでいる夢。顔はよく見えなかったけどその人のことがすごく好きだということは理解出来た。だけど誰か分からない。でもすごく大切で絶対に忘れてはいけない人。この人は誰?

この人は……古賀直樹だ!

 夢から目が覚めた私は全てを思い出した。事故に遭ったあの日私たちに何があったのか。

 私たちは1年ほど前から付き合っていた。あの日は同棲するからと日用品を買いに行っていたのだ。2人で楽しく話をしながら歩いていた時、目の前から1台の車が突っ込んできた。私は急なことで動けずにいた。

「奏ちゃん!」

 直樹に突き飛ばされたことで頭を打った。慌てて振り返るとそこには血だらけになった直樹がいた。薄れていく意識の中で私は必死に名前を呼ぼうとした。だけどどうしても声が出なくて。そんな私を見て直樹は言った。

「奏ちゃんが無事でよかった。大丈夫、僕は大丈夫だから安心して。ね?」

私が病院のベッドで目が覚めた。起きた時には古賀直樹という人の記憶は一切残っていなかった。私が都合よく記憶から消してしまったのだ。



 私は勢いよく起き、慌ててリビングに向かった。

「直樹!」

「ど、どうしたの?」

「なんであの時私なんか助けたのよ!私なんかより直樹の方がよっぽど生きる価値があるのに!」

「……思い出したんだね。」

「うん……。今まで忘れててごめんなさい。直樹の未来を奪った上にそのことすら忘れてしまうなんて。私本当に最低だ……。」

「僕はね君の笑顔が大好きで何よりも大切だったんだ。だから僕は君を守ることが出来て本当によかったと思ってるよ。だから自分を責めないで。僕が勝手に助けただけなんだから。」

「私を助けたこと後悔してるんじゃないの?」

「そんなことあるはずないじゃん!」

「じゃあ何でここにいるの?未練があるんでしょ?」

「……未練はあるよ。でも助けたことを後悔しているとかじゃない。もう一度君の笑顔が見たかった。あの時できなかった買い物にも行きたかった。そして何より、僕が最期に言ったこと覚えてる?」

「……僕は大丈夫だからって言った。」

「僕はあんまり嘘が好きじゃない。あの時は君を安心させるためにあんなこと言ったけどあの言葉は嘘になってしまった。そのことがどうしても気がかりだったんだよ。」

「そのためだけに来てくれたの?」

「本当に君のことを考えるならここに来ちゃいけなかった。せっかく僕のことを忘れてたのに。だけどどうしてももう一度君に会いたかった。ごめんね。」

「私は直樹のこと思い出せてよかった。あの楽しかった思い出まで全て消えてしまうなんて、そんなの嫌だよ!」

 私は泣きじゃくりながら必死に伝えた。直樹の死はたしかに辛い。だけど直樹のことを忘れたまま生きていくのはもっと怖くて辛い。

「奏ちゃん、泣かないで。」

 直樹の体は少しずつ透けてきてしまっている。

「言ったでしょ。僕は君の笑顔が大好きなんだ。だから笑って。僕は君といれて本当に楽しかったよ。これから先辛いこともたくさんあると思う。だけどその笑顔だけは無くさないで。あと時々僕のことを思い出してくれると嬉しいな。そして僕のことは気にせずまた違う人と恋をしてほしい。本当は僕が君のことを幸せにしたかったけどそれはできないから。奏ちゃんは絶対に幸せになってね。僕はずっと見守ってるから。でももう僕のことは忘れないでほしいな。」

本当は直樹を引き止めたい。だけど困らせてしまうから。だから精一杯強がった。

「忘れない、忘れないから。絶対幸せになるから。だから安心してね!私は大丈夫だから。」

 「うんありがとう。今まで本当にありがとね。僕は君といれて本当に楽しかったよ。幸せだった。」

精一杯の笑顔を向けると直樹もいつものあの優しい笑顔を私に向けてくれた。そしてそのまま直樹は静かに消えてしまった。

 私はお母さんに電話し直樹の話をした。お母さんは私が思い出したらまたショックを受けると思い言わなかったらしい。持って行った直樹の荷物は実家で保管してくれていた。私は直樹の荷物を全て持ち帰ることにした。

 あれから数年、私は直樹のお墓参りに来ていた。大切な人を連れて。

「直樹、今日は大切な人を連れてきたよ。今度結婚する予定なの。これから何が起こるか分からないし少し不安だけどこの人と一緒に乗り切ろうと思う。だからできたらでいいから直樹にも見守っててほしいな。」

「言ったでしょ、僕はずっと見守ってるって。奏ちゃんなら大丈夫だよ。」

直樹の声が聞こえた気がした。近くには紫苑が綺麗に咲いていた。



 


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