見出し画像

呪術が指す怪物とは何か。五条悟の置いてかれ/追いつく。は何を斥すのか

gg先生の発言
・最初にテーマを作らないが、過程で出来ることもある。
・正義や悪はなくそれぞれの倫理観のもと導かれている
・現代的な答えは出したくない

以上を踏まえて内容を追っていると物語上よりも「キャラそれぞれ」の答えに重きがあるように思う。

まずはこれを前提にタイトル通り「呪術が指す怪物とは何か。」「五条悟の置いてかれ/追いつくは何を斥すのか」について考えていきたい。

※ただの個人的な解釈を整理する為の感想noteになりますので、以下自己責任でお読み下さい。


怪物とはなにか

呪術の過去から連なる主人公3人には共通してることがある。
それは人外性と人との繋がりを諦められなかったことだ。

しかし、人間であるはずの乙骨が「怪物」を選択し、五条悟が「怪物」と呼ばれていく中で、本作主人公の虎杖悠仁は1話から半人間、後半は呪物と成り果てたのにもかかわらず、前者に相反して人間扱いのままである。
何が彼を人間たしめているのか。それは人との繋がりではないだろうか。

例えば、脹相が人になれたという根拠はない。しかし九十九に「人として生きろ」と言われ、悠仁の兄(人)として死ぬ事ができた。これは悠仁と、その周囲と繋がることが彼を人だと認識させた事になる。

つまり人と繋がりを辞めた事が怪物の発端と仮定出来るし、
繋がることが人だとも受け取れる。

これを踏まえると、五条悟が乙骨の言葉を拒否し、1人で上層部を殺したことが怪物的だと解釈できるし、同時に虎杖悠仁くんが「背中を叩いて」鼓舞し、生徒や仲間と繋がった瞬間は人として、先生としての矜恃を取り戻したとも受け取れる。あの殺気立ち、孤高に進む怪物にその繋がりが「夏油が居れば満足だった」と小さな夢を抱かせたのだ。

同様に、乙骨が怪物を選んだのも、皆の心配を遮り「僕一人で」を選択し繋がりを拒否したからではないだろうか。

①虎杖悠仁の倫理観


ここで主人公の"人"が際立ってくる。宿儺のせいで惨殺を起こし、呪物として存在している今。彼が元凶という人間が居てもおかしくはない。それでも尚、

虎杖のために命を犠牲にした脹相。
親友のために現れた東堂。
一緒に津美木を救ってくれと言った恵。
後を託した七海。
みんなを解呪するような言葉を託した野薔薇。
生かそうとした乙骨。
日車との繋がり。

どれも彼が人として「呪い」や「人間」と向き合い、言葉を交わすからこそ繋がれた願いや思い。これこそ彼の入れ物たる願いの箱であり、繋がりで、人らしさであり、虎杖の「人を救う事」が彼を人として繋ぎ止め、人を人へ返していく。
導かれた倫理観で答えなんだと思う。

②乙骨憂太の倫理観


では乙骨はなにか。
それは0でも明言されているが、夏油傑の思想を理解するよりも仲間を選んだことにあると思う。
虎杖悠仁が「人を救うこと」が行動原理で生きる理由なら、
乙骨くんは「認められ」「仲間を守ること」を原理にしている。

そんな彼にとって五条先生は特段と特別な命の恩人であり、そんな人に「親友を殺させてしまった」という負い目がある。同時に、五条に次ぐ強さは、彼の負担や苦悩を人より察する要因でもあった。

つまり乙骨の倫理観は「身近にいる人を大切にすること」がトリガーで、ともすれば、五条に向けられた強者を生贄にするシステムと、それを平然と受け入れてきた弱者の「強者は自分達のために力を使うべきだ」という価値観は自戒を含めた怒りになるのも頷ける。だからこそ五条の負担を背負い代わりになること。彼が背負ってきた物を肩代わりすることが、乙骨の”周りとのつながりを拒否”してまで恩義を返すための答えになった。

だから乙骨にとって人間的な話、大義的な話は0同様理解する気はなく、大切な人を守れるかどうかが行動原理になっており、彼が出した彼の答えなんだと思う。

③五条悟の倫理観


ここで本題の五条悟の倫理観がなにか。
それは善悪の指針を夏油傑に委ね、人の気持ちにも倫理観にも疎い彼が導き出した「強く聡い仲間を作ること」にある。
これは個人的な解釈だけど、
”強さは夏油傑が自分に追いつけなかったこと。
”聡さ”は己の不完全さ、夏を追いかけられなかった、止められなかったことにあると思っている。
あの時、五条が聡ければ。もしくは夏がもっと強くなっていれば、
二人で話し合える対等性があれば二人は隣にいることが出来たのだ。

だからこそ「強く聡い仲間を作ること」が成立すれば夏油が選んだ「猿を殺す」という果たせない夢を実行せずとも、仲間が死ぬことはなくなる。

なにより、この指針を決めた際に宿儺が復活し、特級呪霊がごろごろいるなんて
最強ですら予想して無かったはずだ。とどのつまり、この聡い仲間に「自分がいる」前提ではなかった可能性にしろ、特級呪霊は自分が生きてる限り解決可能な範囲として認識していたのだと思う。

だから五条悟にとって「強く聡い仲間を作ること」はすなわちゴールで答えになった。

置いてかれたと追いつかなきゃの意味


ではこの倫理観を紐解くと、本誌の背景に書いてあった「君にならできるだろ悟」が呪いの種だと推測できる。

夏油が言っていた「意味のない殺し」は
五条悟になれば「意味のある殺し」になり
それを夏には出来ないと否定した"傲慢性"は、夏油を"否定”し、下に見た、五条が「置いてった」瞬間で、
死ぬ覚悟でやると決めた夏油は明確な五条への拒否に変わった。

つまり最強/神/なんでもできる五条が初めて出来なかったこと。
それは猿を殺す選択であり夏油を「追いかける選択」もしくは夏油を止めること。裏を返せば、夏油傑が"自分には現状不可能"と認識していながら「やるだけのことはやってみる」と自分を死へ追いやっている状況でも、五条に助けを乞わずに独りを選択し、願望時実現に最も必要であろう人材を「置いてった」のだ。

-「俺が強いだけじゃ意味がない。俺が救えるのは他人に救われる準備があるやつだけ」

玉折であり神の失墜。

相反するようにこの後、夏油傑は神を目指し、五条悟は神としての玉折して先生を目指すのを考えると「追いつかなきゃ」にも説得力が増す。

それに当時、夏油もしくは猿を殺せなかった五条と
この時点で村人と親を112人以上殺している夏油。
五条には同じ重みを背負う覚悟もなかったはずだし、彼と違って恨みもない。

だからこそ"呪専時代の夏油傑なら選んでた"であろう倫理観を選択し続け、上層部を「意味なく」殺さず、内部から仕組みを変え、強く聡い仲間を作ることで、夏油が嫌った仲間の死を防ごうとした。
だから、ずっと彼の走馬灯を追ってたし、彼の理想を追いかけなくてはいけなかった。

なにより「皆殺し」ではなく違う形で夏油傑の夢を実現することでしか、再び親友として彼の隣に立つ権利を得れないし、対等な喧嘩が出来ないと思ったんじゃないのか。
その為には自分が怪物になってでも、上層部を最終的に皆殺しにし血に汚れようと、多忙を極めようと、搾取されようと、生徒が、術師が死なない世界の為に、夏油の願望実現を実行したかったんじゃないだろうか。

五条悟は夏油とその他で線引きしていたのか。生徒を蔑ろにしたのかについて

-強くなってよ僕に置いてかれないくらい
本誌の展開で宙ぶらりんになった言葉でもあるが、前述にあるように夏には出来ないと否定した"傲慢性"は五条が「置いてった」瞬間でもあり、五条の本音だ。

指先ひとつで世界を壊し、善にも悪にもなれる五条悟が”みんなと同じ”感覚で生きているわけがないが、夏油をいつまでも大事にしてしまう位には「人間的」な彼の
「一人は寂しい」「僕と並ぶ強さの中が欲しい」「死ぬ時はひとり」
と生徒へ向けた共感性は内在させていた侘しさで、
恵を迎えに行き、虎杖や乙骨を救う位には他者への期待も捨てられなかったんだろう。

それでも諦念の人でもあるから、自分と対等になれる存在などいないんだと、
あの頃ふたりで一つだった時の夏油傑の幻影を求めていたもの事実で、大事な親友がいつまで経っても特別なのも当たり前な事実だ。

そこで出てくるのが五条の答え「強く聡い仲間を作ること」だと思う。
これがあれば生徒が死ぬことはない。例え挫折してもまた立ち上がる強さと聡さを仲間が与えてくれる。

花を愛で、折れないよう、枯れないよう、
化け物になってまで護って来たのは五条だ。
たとえ自己実現の為の利己的な面があろうと、先生と生徒、怪物と人という線引きがあったとしても、それは真っ当な感覚で、当たり前のことのように思う。
なにより「寂しくはなかった」「大好き」だと。背中を叩かれ一瞬でも超えて来た一線を五条は満足であると認識した。これが「愛」でなければ何になるんだろう。

同時に「強く聡い仲間を作ること」さえ実現できれば、夏油傑というゴールにも辿り着ける。
彼が本来目指したかった術師が犠牲にならない世界を実現し、追いつくことが出来る。心の共有が出来ないと置いて行かれた五条が、再び夏油と同じ視点に立つことが出来るのだ。

だから五条悟の線引きは、導き出した倫理観、答えだけでどちらも大事に出来る方法だったのだと思う。

天国でも恵みに謝る機会があると思ってるのを見ると、自分が死のうが皆んなを信じているようにも感じる。

最後に、結局主人公ってなに?

現時点での推測だが
それは五条の倫理観「強く聡い仲間を作ること」から始まった物語の地続きにいることである。
呪術は「言葉が呪いになる」が「言わなかった言葉も呪い」になっている。夏油と五条がもっと話合えていたら、真希の母親が気持ちを伝えていたら、加茂の母親が彼にちゃんと話していたら、彼らは呪いに苦しまなかった。

その点、虎杖悠仁くんは嘘がつけず正直者で相手とたくさん「会話」を選択していく人物だ。彼は会話するからこそ、人の本音や気持ちを引き出し、
そんな虎杖を「強く聡い仲間」たちだから生かそうとする。

そんな、人であることを捨てきれない虎杖だから「つくる繋がり。」
それこそ

-強者に弱者を救う義務があるのか。
-怪物には怪物にならないといけないのか。

繋がりを失ったものを再び繋がりの廻に還す存在で役割なのではないだろうか。
それに五条悟ですら一人で勝てないのなら、人にはやっぱり人が繋がりが必要で、暴走した呪いも、人間の思想も、繋がりの輪に収めるには、言葉と、聡さと、仲間がなのだと思う。

そして彼の答えである「人を救う事」
これは夏油が選べなかった利己的な「自分が救われたい」と
五条が得れなかった「自分が救われることで人も救う」こと。

強者であるヒーローの自己犠牲ではなく、
救われる者・救う者の相互関係へと帰結するのではないかなとも思う。

この後どうなっていのか。虎杖くんは一人祀られ、呪いを納める存在になるのか。だとしたら「人に囲まれて死ぬ」も人と繋がることではないのか。
最終回までみとどけたい。


あまり着地点はないけど、今週の本誌を読んで、頭を整理したく綴ってみた。
最後まで読んでいただきありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?