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2023/12/09 きれいごとの向こう側へ

戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。
 戦争は悲惨だ。
 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。
 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。
 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。

朝日新聞社「論座 2007年1月号」『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。』(赤木智弘)

パートタイマー、契約社員の二年目の冬。
赤木智弘の『論座』での言葉をぼんやりと思い出しながら、スギ薬局で買い物をする。圧倒的に炭水化物が多い。その方が安くすむからだ。
よくここまで生き延びてきたと思う。ふつうの人なら一人暮らしを断念せざるを得ない収入だ。自分が生活できているのは、数々の不幸中の幸いと、様々なことを諦めてきたからだ。子供の頃はたくさん持っていたはずのものを、少しずつ捨ててきた末の現状がある。
自分はまず明るい老後は送れないだろう。
もちろん、よりよい『終わり』に向けて最大限努力しているが、それだけではどうしても足りないものがある。三十歳になって、「いつまでも若くないんだな」と考えると、どうしても見えてしまうものはある。
そういった、諦観の積み重ねによって今がある。
それを、『当然の結末だ』と思う人は、果たしてどれくらいいるだろうか。



今日はメリーの新譜『ユーモア』を何回も聴いた。

外にいるときはずっと聴いていた。車や自転車が通る心配がない場所は、歩きながら聴いていた。そうじゃないと外が怖くて、外出することが出来なかった。なんなら今も聴いている。おそらく『ユーモア』はこれから先何回も聴くことになるだろう。

君がいれば何もいらない
君さえいればそれでいい
もう二度と離れない様に
きつく抱きしめてあげる
見せてあげる永遠の夢
醒めない夢を

メリー『ユーモア』

『ユーモア』は自分にとって、とても新鮮な曲だ。
作詞をしたガラについて、あまり直接的に愛情を伝えるイメージがなかった。『○○が好きだ』という気持ちを歌うとき、あくまで主体が女性であることが多く、しかもそれは悲恋で終わる、そういう印象が多かった。
(もっとも、最新のアルバムに収録されている『ブルームーン』では、恋愛に吹っ切れている女性が主体なので、最近は世界観にも変化が起きていると思う)
ここまで「君」にストレートな気持ちを歌うガラは、珍しい印象だ。

わたしが「○○が好きだ」という恋愛ソングや恋愛映画を視聴するとき、一階堂洋のある文章が決まって思い浮かぶ。

私からすれば、ヒロインは完全に装置であり、『私たちの関係』とは『装置と使用者』だ。彼女という装置を用いることで、主人公は1. 人と接するようになり、2. 精神的に成長し、3. ヒロインの友達といい感じの関係になる。おそらくこっちとセックスをする(しかもそれは物語の外に置かれる)。分かるか? この装置は目的を果たすし、しかもセックスの相手も提供してくれ、しかも勝手にこっちを見つけてくるのだ。完璧だ! 全国民に配れ! ひろゆき見てるか? うさぎを配るのは古い。時代はネアカで六ヶ月後に死ぬ女。ふざけんなよ。

『君の膵臓を食べたい』はヤバい。『植物図鑑』よりヤバい。
(https://not-miso-inside.netlify.app/blog/book-review-1/)

それもそうだな、と思う。「君が好きだ」と歌ってくれるバンドマンは自分にとって都合がいい。お金を払えばライブに行けて、そこで一方的に愛情を伝えてくれるし、しかも格好いい。そこにコミュニケーションは介在せず、とても安心する。自分のように人と上手く接することが出来ない人間ならなおさらだ。
自分はたまに、フィクションのロマンチックな恋愛を唾棄してしまうことがある。「それは本当の愛情じゃない」「幸せな恋愛なんてない」と、傷つけあうことばかり考えている。
しかし、その発想は、逆にロマンチックな幻想によって支えられているものだとも思う。そもそも、真実の愛なんて存在しないからだ。

わたしがワイヤレスイヤホンを通して何回も「愛している」と囁いてくれるバンドマンを享受するとき、それはきれいごとだ、と思う。そしてその言葉は、最近とある人に言われたことがある。

「きれいごとばかり語って、現実には何もしようとしない理想主義者」

ずっと家に引きこもっていたとき、ネットとイヤホンを通して聴く音楽だけが、わたしの社会だった。
誰かが見せてくれた夢を、自分もまた見続けることで、わたしはかろうじて生き延びてきた。
「きれいごと」を吐き捨てつつ、本質的には「きれいごと」で生き延びてきたように思う。

お金を積めば積むほど「夢」を見せてくれる世界で、わたしは一歩を踏み出すかどうか迷っていた。
収入は少ない。諦めてきたことがたくさんある。そんな中で、本当にバンドマンを追いかけていいのだろうか。
そういった中で、中国の作家である魯迅が書いたある一節を思い出していた。

「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」
 と、わたしはただこう言ってみた。すると彼は
「そうして幾人は已に起き上った。君が著手しなければ、この鉄部屋の希望を壊したといわれても仕方がない」
 そうだ。わたしにはわたしだけの確信がある。けれど希望を説く段になると、彼を塗りつぶすことは出来ない、というのは希望は将来にあるもので、決してわたしの「必ず無い」の証明をもって、彼のいわゆる「あるだろう」を征服することは出来ない。

魯迅『吶喊』原序(井上紅梅訳)

要約すると「人が空気の薄い鉄の部屋に閉じ込められていて、このまま寝ていれば人は苦しまずにすむ。それでも起こすというのか」という問いに、「でも人が起きれば、この鉄の部屋を壊せる希望はある。希望は殺せない」という内容の文章だ。
「きれいごと」の本質はこういうことだと思う。「人はパンのみで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」というのは旧約聖書に書かれた言葉だが、結局人間は希望がないと生きていくことはできない。
そしてわたしは今、希望をお金で買おうとしている。

資本主義がどうしても許せない。競争を是とする社会が認められない。しかし、生存するためには資本主義の内部で生きていく必要がある。生存しなければ鉄の部屋を壊すことが出来ない。
そもそも働いて生きていく以上、わたしはすでに資本主義の内部にいる、と気づくのが妥当だろう。
資本主義の内部で踊らされることがなく、自らの意志で踊ることを選択しながら、それでも鉄の部屋を壊す意志を持ち続けることは可能だろうか。

精神障害者の寿命は短い、というデータがある。
心を病んだわたしの仲間たちが、たくさんの人が生きることを諦めてしまった末の道を歩いている。
きれいごとも泥も飲み干したうえで、それでも生き残ってく必要性を感じている。そうでないと悔しい。

My darling
離さないでいて
心臓抱いて 強く掴んで
舞う二人 離れないように
燃え尽きて 灰になるまで

メリー『愛なんて所詮都合のいいものなのに』