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2024/1/27 あなたが生きててほんとうに良かった

自宅敷地内のプレハブ小屋で10年以上にわたり長女の柿元愛里さん=当時(33)=を監禁し凍死させたとして、保護責任者遺棄致死などの罪に問われた両親の裁判員裁判が7日、大阪地裁で始まる。統合失調症と診断された愛里さんを約2畳の「隔離部屋」に閉じ込め、モニターで監視していたとされる事件。両親は起訴内容を争うとみられるが、公判で何を語るのか注目される。

発見時は「骨と皮」…なぜ長女を監禁、凍死させたのか 7日に両親初公判
(https://www.sankei.com/article/20200205-4XSDPPUTUJKCZFCR5GCOXBA3ZI/)

2019年7月、京都アニメーション第1スタジオに放火し36人を殺害した罪などに問われている青葉真司被告が、死刑判決を言い渡された。
それについて深く語るべき言葉を持っていない。それほどまでに凄惨な事件だったと思う。ただ、被告は統合失調症の既往歴があった話が耳に残った。
監禁されて凍死した女性。「アイディアを剽窃された」と思い込んで放火した被告。
わたしは、その人たちと自分をうまく線を引くことができない。
わたしと同じように、精神を病んだり障害を抱えた人たちと関わったことがあるが、ほぼ例外なく断絶している。
自分もぎりぎりで生き延びている中で、彼、彼女らは、精神疾患を抱えながら上手く生き延びることが出来ているだろうか。
世の中にはどうしようもないこともある。

ガザ・イスラエル紛争の話題がしばらく続く。文壇では、そのことについて言及している作家が多い印象がある。
「もっとこの地獄についてよく知るべきだ」「知らないふりをしている人間も加害者」
紛争の話題について喧伝している、とある作家の呟きを見た途端、わたしに激しい怒りが沸き起こった。
この人は何を言っているんだろう。
ずっと前から、わたしたちが取り巻く環境はすでに地獄だった。
あなただって、わたしたちの環境に見て見ぬふりをしているのではないのか。
もっとわたしたちが、声を大にして現状を喧伝するべきだったのだろうか?
シュプレヒコールの声が小さいことで貶められるのであれば、その声を聞いてもらうためにもっと強くなるべきだったんだろうか。
そして、その怒りは、同じくらい何かに見て見ぬふりをしてきた自分に対しても沸き上がる。

「障がい者は私たちプロの社会人戦士から見たら、目障りかつ邪魔以外なにものでもありません。お願いですから障がい者はこの世から全て消えてください」
「正直、今の日本に障がい者を保護する余裕はありません。普通の人でも生きるのが精いっぱいなのに、生産性のない障がい者を守ることはできません」

NHKの福祉情報番組「ハートネットTV」特集
『相模原市の知的障害者福祉施設刺殺事件』で取り上げられた意見

正月にかけて紛争問題や石川・能登の震災の話題が多くなり、ネットで数々の「祈り」が散見されるようになった。
わたしたち弱者は「祈られて」終わる存在だという考えを捨てることができない。
「こういう事件が起きてほしくないですね」「障害者は権利を保障されるべきですね」、そのバックグラウンドで、わたしの知人はいったいどうしているだろう。「自分は頑張れない」「役に立たない」と思いながら、人生をすり減らして生きている人たちを何人も見過ぎてしまった。そして、わたしも。
もっとも、わたしたちは祈られることもあまりない。わたしは、祈りも、救いも、選別された人が手にするものだという感覚が、どうしても拭えない。自分は今や、誰かの祈りを踏みにじりかねない存在だ。終わらない椅子取りゲームから降りてしまいたい。でも、もう既に何人もの死者は出ている。わたしが生存から降りたところで、社会は不要な物を捨てながら、正常に機能していくに過ぎない。

わたしが、もっと強ければよかったのだろうか。
もっとお金があればよかったのだろうか。もっと自信があったらよかったのだろうか。
もっと上手く喋れれば。もっと器用に生きれたら。
環境が悪いのだろうか。周りがもっと優しければ良かったのだろうか。自分が全て悪いのだろうか。
あの人は結婚してるから恵まれている。子育てをしているから恵まれている。ちゃんと仕事をしているから、恵まれている。障害がないから、恵まれている。
わたしが、生まれてこなければ、良かったのだろうか。

某所のコワーキングスペースで、一人で文章を書いていた。今日は少し捗ったな。でも、あまり、人に見せる文章は書けなかった気がする。空を掴む日々だ。
帰りのバスに乗るために停留所でぼんやり待っていると、一台の車が通りかかった。
その車は政治的な内容を大音量のスピーカーで流す、いわゆる街宣車で、「ゴミ」「売国奴」「傀儡政権」といった、あまり聞くに堪えない音声を延々と流していた。陰謀論と言っても差し支えないだろう。
そうだよな。わたしは一人で相槌を打った。こんなメチャクチャな世の中で生存するためには、どうしても人は壊れざるを得ないことがある。この人に何があったのかは、わたしはよくわからない。けど、その人が懸命に生きたからこそ、壊れてしまったこともあるんじゃないか。
そして、わたしは、心の中で手を合わせて、あんなに唾を吐いていた『祈り』という行為を、その人に静かに捧げた。
この人に何が起きるかわからないけど、平穏な人生があるといい。


やさしさだけで生きることはできない。人は、物質的な豊かさがないと、生きていくことは難しい。
でも、生きていくには、お金や物資だけが必要ということも、ないんじゃないか。
ものやお金だけで生きている人生があるとしたら、それは本当に豊かな人生と呼べるのだろうか。
祈るという行為は、人間のみ出来る行為だ。動物には出来ない。ひとのやさしさは、誰かの思いやりは、決して「きれいごと」だけで消化できるものではないんじゃないか。
いろんな人の、いろんな厚意を受けとって生きてきた。だとすれば、わたしに出来ることはなんだろう。
それは、困った人や、自分より下の世代に、もらった気持ちを分けることではないだろうか。
それは、「助けてあげよう」という気持ちよりも、「他者へのリスペクト」が先立つもので、あってほしい。


自分には欠点がたくさんある。人を傷つけたり、人が去っていったことも、たくさんある。
もし、生まれ変わることができたら、もっと器用で、やさしい人間になりたいと思う。
でも、今すぐ生まれ変わることができないから、ここにいる。
自分の弱さや、正しくなさを見つめて、それでも強く生きのびていきたいと思った。障害者としてでも、弱者としてでもなく、一人の人間として。

私の声なんて届かない、届かない
若すぎる、ナイーブすぎる
厄介すぎる、多くを見すぎている
背が低すぎる、ブスすぎる
歳をとりすぎている
頭が悪すぎる
頭が良すぎる
心の傷が深すぎる
弱すぎる
強すぎる

私は強い
自分の弱さを見てきたから
人の弱さも見てきたから
人の弱さを許してきたから

私は強い
自分が変われると知っているから
世界が変われると知っているから

日経『International Women's Day Symposium』
Awichによる詩のパフォーマンスより引用
(https://www.youtube.com/watch?v=tcnxJjE-Zbs)