出来てしまうことの弊害

自宅で家族の介護の中で、医療行為だけど家族なら責任的にOKというケアもしている。
呼吸機はなくても、血中の酸素飽和度や心拍が可視化された環境にいて、薬についても「何が足りてないですか?」と言われることもある。
介護の様子を医師や看護師に、医師の話を各福祉施設に伝えることも必要になる。

いや、必要なのは私の不安払拭やストレス解消のためなのかもしれない。

知らないことに振り回され、知らないのになんとも聞かれる、であれば自ら振り回す方にまわればいい。
知らないことは調べ、教わらなくてもそれぞれがどのような環境づくりと手技をしているのか観察し、立場の違いによる見解の違いの差を予測して………つかれる。

出来ない人が得られるものを捨ててるのかもしれない。

仮定はふとよぎっても私は選ばない。
必要だからしている。
私はできても他の家族は全くできなかった、そこを踏ん張り環境を整えて他の家族も「出来ない」ほどに「する」ようになった。
それは始まりとは違って、倒れられる安心感がある。
そして、今、体調不良で介護対象の家族は入院している。
それは他の家族がみていたときに「自分には無理」と判断したもので、いつも自宅で粘る私より早い判断になった。
入院した家族はその方が病状が長くならず辛くない。

出来てしまうことが必ずいいということではないと感じた。
どちらも整った今、見直していきたい。

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