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2019.9.3 音が纏うもの

響の無い部屋で、何の処理も施さない裸の声と対峙していると、聞こえないものの重要性にどんどん引きずり込まれていく。

マイクに乗る声の纏うものが、ほんのさじ加減で変わってしまう怖さ、面白さを、どんな風に具体化していこうか考えている。

同じ声なのにこうも違うものかと、唸らざるを得ない。しかしそれが何なのか?そもそも、聞こえないのだ。聞こえているんだけれど聞こえない。。聞こえるというより感じ取れる。そういう類のもの。

それを単に倍音として語るには、不確定なことが多い。

一つの音に様々な要因が纏い作り出す響きの不思議。

不思議といってしまえばそれまでなのだが、やっぱり不思議なのだ。
同じ声、同じ音程の声が持つ特性が、体の感覚一つで変わりすぎる。いいとこの当たりはついているのだけれど。

昨日、久しぶりに素晴らしい歌を耳にした。ビーチボーイズのブルース・ジョンストンの歌うDisnyGirlだ。
スタジオのロビーでたまたまかかっていたのだけれど、思わず聞き入った。
ビーチボーイズといえば多重コーラスというイメージが強いけれど、彼がソロで歌うのを聞くとその下地の素晴らしさに触れることができる。

その類の響きは日本語ではなかなか聞けない。

強い母音は倍音を著しく低下させるそうなので、母音に依存する日本語での歌唱は音楽的に不利ということは否めない。
でも、坂本九のsukiyakiを聞いてみるとその歌声が音楽的に受け入れられたのだろうと納得することができる。あの歌唱はそういう類のものだったと思う。

しかし、例えば英語圏のシンガーであってもどうしても歌唱の際に母音を強くしてしまう傾向はあるようで、その場合やっぱりその音楽的な土俵からははみ出てしまう印象。

何が違うのかと言われると、まだはっきりとは断定することができないが、声が楽器を引き連れているような感覚、、全てのリーダーでありながらも斗出するだけでなく、調和している。
曖昧だけど、確信的な何かがある。
それは歌声の中の基音と5度の調和なのかもしれないが、はっきりそうだとは言えない。


ここのところ、6月6日あたりの考察と似たことに立ち返っていて、それは舌の使い方で響きを頭部へ促すということだ。

6月頃は腹部はあまり意識をしない方向性だった。
しかしその後は舌や頭部の意識から離れ、腹部への関心が高まっていた。

今回、その両方を掛け合わせることで、以前よりも響きをコントロールすることができ始めている。

現在進行形の状態は、
舌の役割は、管楽器でいうピッチを抑えるようなイメージ。
息を吐く時に、背筋で横隔膜を下に留めて、その連動でみぞおちは自然と出る。
声は左右の肩甲骨の間から後頭部に当て、そこから声に纏わせる響きを作る。

その状態で英語を喋ると、まるで別人格になったような心地がする。
同じくその状態で日本語を話すと、片言の外国人の気持ちがよくわかる。

舌を発生毎に巻き込んで道を造り、その裏に背筋で圧力を持った声を通す。
それを経て、聞こえているはずの聞こえない響きを声に纏わせることが、、できたりできなかったりしている。

音楽の素晴らしさは、まず楽器の素晴らしさにも由来する。それは音楽を演奏する以前の問題だ。
職人たちはとにかく響きを追求することに明け暮れているだろう。世界中にいる楽器職人たちが何世紀にも渡り受け継いできた叡智は響きを追求する時間と言っていいのかもしれない。

響きとは、音が纏う何か。
見えているのに、掴めたり、掴めなかったりする。

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