平均律は人間界・純正律は自然界
コードのルート音に対して、メロディーが縫う様に行く。
毎回毎回アプローチに迷いが出るのは、
1、ルートに対しての純正ピッチに行くべきか
2、それとも実際に鳴っている音を目指して音をアプローチするべきか
という、二つのダブルスタンダードがそこに存在するためだと思う。
純正律は平均律に比べると
ルートに対しての3、6、7度は、10セント以上 ♭
逆に、短2、短3、短6、短7なんかは、10セント以上 ♯
去年はかなりその辺りを考えていたけど、技術が追いつかず、わかっているがアプローチの仕方が難しかった。
今、もう一度立ち返ると、その辺りの音の解釈が少し深くなってきている。
例えば、奇跡の様な二度と生まれそうにないテイクとか、
なんでそんな良かったの?
っていう歌のテイクには、そんなカラクリがある。
それは、わかっていてもなかなかできる事ではないけれど、分からなければ目指す場所がなくなって、調和から乱れる。どんどん崩れていく。
例え天才でも、崩れる時がある。
動かない科学がそこにある事は、まるで神の存在と酷似していて、身を委ねることができるのだ。
倍音は、全て純正律。
やっぱりそこに標準を据えるべきかと思う。
僕たちの使う伴奏の楽器たちは平均律だ。
平均律は人間界、純正律は自然界。
そんな例えができると思う。
その間を縫って進む音楽が好きだ。
その間を縫って走る声になりたい。
追伸
人間も自然界の一部だけどさ、やっぱり、逆らってるところあるし。
そして無意識の状態が一番いい場合っていうのはもちろんある。
それが一番、本能のままで良かったりする。
しかし、倍音の物理的現象を生み出したのは人間。
人間の生み出した現象は自然科学の法則に返っているという循環。。
双方の歩み寄りがやはり必要なのだ。
双方というよりは、動ける方が動くしかない。自然現象は動けないから、こちらが歩み寄るしかないか。
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