歌声紀行/2020.1.10 音と体の地図、そして目的地
空から街を見下ろすと、見慣れた街のよく知る建物同士の位置関係に驚いたりする。自宅から向かう駅の方角も、実際とは少し違うところに意識があったりする。
人間の体と意識の関係は、まさにそれと似ている。また、無意識の領域は意識的な領域の比では無いほどに膨大である。
この一年間、とにかく声を録音し、イメージに向かって修正に修正を重ねてきたが、とうとう昨年末、ちょっとわからなくなった。
昨年3月から、これまでの歌声紀行の投稿数は124。まだ一年経っていないので、三日に一度は投稿している。頭の中は常にその事で動いているので、交通整理という意味ではよかったが、良いところまできて迷路に迷い込んだ。
結局のところ、目的地に対しての地図を持ち合わせていなかったと言うことに他ならないのだが、それでは一体何が目的地で、どんな地図が必要だったのだろうか?
昨年の歌声紀行を振り返ると、必要な地図が二つと、一つの目的地の存在がはっきりとしてくる。
まず、二つの地図とは、音、そして体についてだ。要点だけまとめるとこうなる。
音について
1倍音(振幅で発生する楽音に発生する響き、科学)
2純正律(倍音で響いている和音そのもの)
3和声の調和(相対的な音の関係)
体について
1呼吸について
2喉について(喉頭、声帯を囲む筋肉や軟骨の詳細)
3共鳴について(声道、口腔、咽頭全体、鼻腔、軟口蓋、硬口蓋)
4顎について(顎から舌骨に繋がる筋肉群)
これらについての考察は、そのまま頭の中で地図を作り出す。
まずはじめに、音の地図が明確になった。ただ音は当然見ることができない。しかし、見えない音に調和のイメージが持てたのには理由がある。それは、見えない音の原理を科学的なアプローチで把握することができたからだ。音には数字と法則がある。そんな音の地図が僕の頭にインストールされ、その情報があるからこそ、僕の耳は音が調和している状態という判断ができるようになった。こうして音の地図ができると、目と耳で感じることが研ぎ澄まされ、調和という目的地を見つけることができた。
次に、同時進行していた体の地図についてだが、そこで問題が起こった。音の地図で見つけた目的地にたどり着くにはそれを体現する体が必要なわけだが、調和を目指す過程で、僕は声の調子を少し悪くした。
目的地は見えているのにどうしてもたどり着けないのだ。これまで作ってきた自分の体の地図が機能不全になってしまった。
年を越して思ったのは、目的地へたどり着く為の、体の地図が不十分では無いだろうか?ということだった。
そこでもう一度、喉の仕組み、それを司る筋肉群に光を当て、正確な位置情報と機能を学んだ。すると、これまでの思い込みによって誤作動を起こしていた事がすぐに明らかになった。体のマッピングが正確になるということは、冒頭で述べたように、空から街を見下ろす事とおなじで、近道と思っていた道が実は遠回りだったりする真実を知ることと同じだった。
ただ、これまでの苦労は決して無駄ではなく、僕の作った地図には無かった抜け道を足してあげる程度でかなり正確な地図が出来上がった。
そして僕は体の正しい地図、設計図や機能についても同時に手に入れて、思いを新たに歩み始めていると言うわけだ。
音の地図が目的地を生み、体の地図が目的地に向かう。その関係が今年に入って明るみに出た。
声は、誰にでも出せる。しかしながら、その仕組みを正確に理解している人はほぼいないだろう。
そして音も然り。その神秘を知らずとも、感動できるし楽しめる。
音楽家でさえ、その地図を持たずに音楽はできるし人に感動を与えることだってできる。しかし思い上がっていけないのは、様々な楽器というものは、叡智の塊であり、音楽家がその楽器に触れるよりはるか昔から育まれてきたものだ。当たり前のように使っている平均律も、学者たちが知恵を絞って作り出した。
声以外の楽器というものは、楽器自体がすでに出来上がっており、音楽家はそれを演奏するというところからスタートする。気楽と言えば気楽だ。そもそも楽器を信頼で出来なければ、演奏に集中することなどできるだろうか?
しかし歌声に関していえば、楽音の中で調和するという至難の技を成し遂げられるのは、ほんの僅かな、限られた人間にしか与えられないお贈り物なのだ。ただ、それが何故ゆえに贈り物なのか?を解き明かしていくことは、その他の楽器が歩んできた苦節に対する礼儀のような気さえする。
類稀なる天才を除けば、音と体の地図を持たずして声を調和という目的地へ導く紀行が如何に困難かは、言うまでもない。
また、多くの人にとって「それを目指すかどうか?」と「音楽を楽しんだり表現する。」ということは、まるで相反することだろう。
ただ、目的地を知ってしまったが故に、それを目指す楽しみも知ってしまったのならば、まだ続くであろう「道無き道」を行くことに、ためらう理由など無いというものだ。
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