「Little Bug 」ライナーノーツ-柴崎祐二-
2014年に「森は生きている」と7インチを出したころ当時P-VINEの担当だった柴崎祐二さん(音楽ディレクター/評論家)にライナーノーツをお願いしました。
今回のアルバムでフォークアンビエントというフレーミングを自身の音楽性に携えたのですが、それについての考察と見解がとても丁寧にしたためられた文章に、とても感動しました。よかったら是非ご一読ください。
『Little Bug』 配信リンク https://friendship.lnk.to/LittleBug
1.STAR
2.Little Bug
3.Summer Coming
4.Scene to Scene
5.Stay Morning
6.Evolution Is the Reason
7.Ikisatsu
8.go to Ukraine
9.Our House
Little Bug ライナーノーツ-柴崎祐二-
笹倉慎介は、本作『Little Bug』に収められた音楽を、自ら「フォーク・アンビエント」と称している。これまで奏でてきた自身の音楽に様々な形容や評が投げかけられても、どこか釈然としない違和感があったというが、「フォーク・アンビエント」という言葉が浮かんできたとき、すっと腑に落ちる感覚を抱いたのだという。
「フォーク」とは、一般的な理解に沿っていえば、主にアコースティック・ギターを伴って歌われるアメリカの伝承歌、あるいはそれを元にした比較的シンプルな構造を持つ自作曲を指すことが多い。被抑圧者としての民衆の声を反映したものや、時事的な事柄を扱うものなど、社会的な問題意識と一体となった表現もある一方、内面的な世界を歌う「シンガー・ソングライター」のように、「個」をモチーフとして扱う場合もある。
片や「アンビエント」は、主にシンセサイザー等の電子楽器を伴いながら、必ずしも集中的な聴取を要請しない、環境の中に溶け込むような穏やかな音像/ゆるやかな構造をもった音楽をそう呼ぶのが一般的だろう。
そうして考えてみると、「フォーク」と「アンビエント」は、相反するとまでは言わないものの、かなり隔たった存在であるように思われるし、その隔たりは、特に意識するまでもなく多くの音楽リスナーの間で自明化しているようにも感じられる。
しかし、本作『Little Bug』では、この2つの世界が非常に巧み、かつ自然な形で同居し、融合している。まず指摘できるのが、その楽曲の構造、更には音響面における「アンビエント性」と、そこへ豊かに流れ込んでいる様々なルーツ音楽的な要素だ。実は、こうした表現を実践してきたアーティストは、稀有な存在とはいえ全くいなかったというわけではない。その上で、本作の第一の魅力は、そうした音楽を直接的に参照しているというよりも、笹倉自身の音楽とそれらが持つ空気を触れ合わすように、緩やかに合流させているという点にある。
オールド・ロックのファンであれば、笹倉の歌唱/演奏と、気心の知れた優れたミュージシャン達による素晴らしい演奏に、ニール・ヤングとストレイ・ゲイダーズが組んで制作した歴史的名盤『ハーヴェスト』(1972年)に似たまろやかな空気を発見するだろう。また、屋外の田園環境で録音を行った英国のフォーク・ロック・バンド、ヘロンの音楽を思い起こす方もいるかもしれない。加えて、フリート・フォクシーズやボン・イヴェール、サム・アミドン、アンディ・シャウフのような、のちの米国やカナダのインディー・ロック/フォーク系アーティストが取り組んできた、ルーツ・ミュージックへの音響的なアプローチを彷彿させもする。加えて、「STAR」や「Stay Morning」などいくつかの曲では、エレクトロニック・ミュージックやヒップホップの要素をも吸収する貪欲さも聴かせる。
そうした様々な音楽があくまで柔らかな姿形をもって『Little Bug』の中に溶け込むことで、伝統の継承と更新が息づいているのを感じさせてくれる。これは、笹倉自身の手による巧みな録音/ミックス/マスタリング手腕による部分も非常に大きいと思われる。曲自体の持つ豊かなハーモニーへ更なる色彩を加えるようにリヴァーブ等の空間的処理が施されることで、まさに「フォーク・アンビエント」というほかない音響作品として結実している。そしてまた、儚げなまろやかさを増した笹倉の歌声も、こうした印象を決定づけ、深めるのに寄与している。
『Little Bug』における音楽性/音響上の「フォーク」と「アンビエント」の巧みな習合ぶりは、より根源的なレベルでの両者の類似性を教えてくれる。そもそもフォークとは、その成り立ちからしてすぐれて公共性の高い音楽だ。様々な人々、コミュニティの中で受け継がれ、歌い継がれてきたフォークは、はじめから特定の記名的存在に結びつく表現ではなく、ある環境の中で様々な主体の間を取り持つ空間的なメディアとして機能してきた面がある。というか、それこそがフォークという音楽のもっとも深い地層に刻まれている性質だと考えることも出来る。片やアンビエントは、先に述べた通り当然ながらそれ自体だけで自立し、排他的な形態として存在するものではない。あくまで環境の中にあり、「音楽そのもの」ではなく、環境と音楽の相互的なありよう/関係性を立ち上がらせることに特徴を持つ。そう考えると、この2つの音楽は決して距離の遠いものでないどころか、その本質を大きく共有する存在であるともいえるのだ。
本作の歌詞に触れてまず感じるのは、いわゆる「シンガー・ソングライター」の音楽によく聴かれる内面/内省的な叙述法からの離脱だ。もちろん、自ら/自らの周囲に起こる様々な出来事を巧みにすくい上げてみせる笹倉の手腕が引き続き一級品であるのは間違いない。しかし、本作で試みられている詞作は、その実これまでの作品とは異なる地平を見据えたものに感じられる。仮に「個」やその内面が描き出されようとも、まずもって賭けられているのは、その「個」があるところの環境や風景、あるいは空気をいかに瑞々しくキャプチャーし得るか、という可能性なのだ。自らの内面的心情をただ詳述するのではなく、むしろ逆の方向から、環境の中にある自らの心の動きを観察しようとする。言葉をなにかの目的をもって弄ぶのではなく、環境の中で言葉が生起し、過去へ遡行したり未来にむかってそれが変幻していく様を捉えようとするのだ。つまり、本作に漂う言葉もまた、ごく根源的なレベルにおいて「アンビエント的」だと評することができるのではないだろうか。
こうした印象は、例えば、アルバムの中にあって目立って政治的なテーマを扱ったように聴こえる「go to Ukraine」を聴いても変わらない。ある一兵士の述懐という形を借りながら表現されているのは、その兵士の「個」としての苦悩のあり方だけではない。むしろ、「個」を取り囲む苛烈な環境に意識を向けさせるからこそ、その悲劇性が際立ってくるのだ。
そして、一兵士を取り囲む環境は、遠い日本の我々にも無関係ではない。このことを、続く「Our House」は痛烈に認識させてくれる。一見、あるカップルのごく平和な日常を切り取っただけのようだが、「go to Ukraine」の直後に、そして、アルバムの終曲にこれが置かれている効果は絶大だ。この何気ない日常の風景のスケッチは、あの兵士が、とある日にそうしていた風景なのかもしれないという気づきが訪れるとき、全く不意打ちのように、戦争という「環境」が日常に接続され、その無慈悲さに深く思いを致さざるをえなくなるのだ(我々はまた、C,S,N&Yの同名曲がかつて、ベトナム戦争の戦禍広がる中で作られ歌われたという事実に改めて気付かされる)。
笹倉は、本作のリリースに臨んでしたためた文章で、アルバム・タイトルの由来を語っている。『Little Bug』の「Bug」とは、小さな虫のことでもあり、コンピューターやソフトウェアの用語であるところの「バグ」を同時に示唆しているのだという。整然と、理路通りに展開するわけではない、人間にとっては未知というほかない小さな虫の世界。あるいは、正確無比であるはずのデジタル・テクノロジーが支配する無機世界にすら忍び込む予期し得ない事態。これらの不可知性/不可能性にここ数年の世界を突如覆ったカタストロフィを重ね合わせることで、より深く世界の不可思議に触れ、その驚きを手放さず、正気を保ちながら生きようとする。あるいは、環境へと目と耳と肌を開き、その中で驚くことを諦めず、歌いつづけていく。より敷衍して言えば、「個」への内閉や自足を退け、世界へと再び目と耳を開いていく……。
フォーク、フォーク・ロック、アンビエント。様々な次元において、かつてこのような深度でそれらを巧みに溶け合わせた音楽があっただろうか。『Little Bug』が見せてくれる風景の鮮やかさ、奥行き、広大さは、旧来のポピュラー音楽観をダイナミックに溶解させる可能性も秘めていると感じる。
2022年11月 柴崎祐二