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2019.8.25 感性に従えばいい理由

ひとまず音楽感論を読み終えた。
読み終えたというより、1/3くらいしか目を通していない。今必要なことを抜粋して読破した。
今後も必要な時に引っ張り出すものとなるだろう。

さて、今日はルート音を基音して、一つずつのメロディーに対して純正律のピッチを確かめてみることにした。

こうしてみると、同じ音でもコードを跨ぐと響かせ方が、つまり音の取り方が変わってくる。

実はこれまでの体感では、連続する同じ音程でもコードが変わるたびにその音程が上下している感覚があった。実際譜面で音符を起こしてみると同じ音だったりして、、、自分の音感に落ち込んだりもした。
また、チューナーできっちり測って歌っても音がしっくりこないということが実際に体感としてあった。

しかし今回のようにルート音に対して純正律のメロディーを追うと。その不快さが解消する。
つまり、ドはドでもその高さが微妙に又はかなり違うということ。純正律で調律されたドではないドの方がしっくりきて調和するのだ。
実際に同じ音の音程が上下することで、音が調和していたのだ。

例えるならば、ラーメンには胡椒、うどんには柚子胡椒、みたいな、、
ラーメンはルート音がドで、うどんはルート音がミ、みたいな差がある。

それでは純正律にチューニングされた楽器の音とずれてしまうのでは?という問いに答えるならば、まず一つにそもそもの学音(簡単にいうと連続する音楽的な音)から発生している倍音というのは純正音であるから、楽器を演奏すること自体で基音に対するたくさんの純正倍音が発生している。

次に音楽の道を印象づけるのは一番低いルート音であり、また低い音が一番比較的豊かな倍音を含む。

ということは、ルートに対しての倍音(純正の響き)は音楽の中でかなり大切な印象を含んでいる。

つまり声が伴奏の中で一番の振る舞いをする時、それはルート音に対しての純正なメロディーを調律することだと考えられるのだ。

しかし分かったからといって、頭で考えながら歌うことは避けたいし、なかなかできるものでもないだろうが、単に平均律で正しいとされる音を追うことからは解放される。でもその響きのありかを知っていることは非常に心強い。

では、どうしたら良いのだろうか。

そもそも、僕たちは何のために歌うのだろうか?

それは、調和するためだろう。
それは音楽そのものの由来と同じだ。

人の声から始まった音楽は、その伴奏として楽器が生まれ進化を遂げてきたらしい。そして、何百年もかけて今の平均律にたどり着いた。

平均律というのは実に人類らしいなと思う。
完全に調和をすることはないが、均等に振る舞うことができる。

純正律もまた人間らしい。
どんなに純粋をふるまっていても、その倍音には必ず不協和音が存在する。

平均律の中に純正律を振る舞う行為こそが、現代音楽における一つの醍醐味だろうけれど(勝手に思っている)、その原理を意図したところで、完全な調和など不可能だろう。

だからこそ、願うのかもしれない。
不可能を知りながらも、
平均と純正を行ったり来たりできるしなやかさ、それが僕の聞きたい、やりたい音楽だろう。

素晴らしい歌を聴くと、その人はきっと優しい人なんだろうな、って思う。
優しい音楽を聴くと許されている気持ちになる。
それは、音同士が許し合い調和しているからではなかろうか。
その中には激しさや強さ弱さ、あらゆる感情を調和させる救いがある。

感性という一番曖昧なものを信じきれる人は少ないだろう。
僕は随分と失ってしまったが、それが何だったのかを知ることが、唯一それを取り戻す鍵となるだろう。

歌うたいとして録音に携わり、音を図る物差しを見続けたがゆえに失ってしまった感性は計り知れない。
しかしその感覚また、音を図る物差しによって取り戻すことができるだろう。

感覚に従えばいい。感覚という道しるべは理の中にあるから安心していい。
調和することをイメージしながら、音に身を委ねればいいのだ。

知ってしまって失ったものは、とことん知ることでしか取り戻すことはできない。

感性はまだ生きている。
それを司る理は、太古から変わらずにここにある。

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