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中沢啓治「オキナワ」について

(敬称略)

注)今回の文章はamazonの中沢啓治「オキナワ」に対するカスタマーレビューに投稿をしたものを元にしたものです。

 本作は「オキナワ」というタイトルとなっているが、タイトルの「オキナワ」のほか、「うじ虫の歌」、「冥土からの招待」、「永遠のアンカー」、「拍子木の歌」から成る作品集で、「オキナワ」は沖縄戦をはじめとした沖縄占領下での沖縄民衆の受けた(現在も受けている)犠牲、「うじ虫の歌」、「冥土からの招待」は沖縄戦による悲劇が戦後も続いている事実を描いた作品、「永遠のアンカー」は沖縄の学生と広島の被爆二世の友情を描いた作品、「拍子木の歌」は砂川基地(現昭和記念公園)付近で原爆の悲劇を紙芝居形式で伝えようとする少年の動きを描いた作品となっている。詳細は本作品をお読みいただければと思う。 
 中沢自身は「はだしのゲン」が有名だが、中沢自身の思想的スタンス、人に対する思いは本作「オキナワ」からすでに表れていると思う。沖縄の民衆が日本と違う国だった経緯から日本から蔑視。異端視されている実態。沖縄米軍基地による沖縄が受ける苦難を描いているその一方でアメリカ人一人ひとりに対しては米兵がベトナム戦争にトラウマや恐怖を描き悩む様子、主人公と米兵の息子との友情を描くなど、人間としてわかりあう気持ちの大切さを描いている。中沢の作品に好感を感じるのはそうした左翼教条主義にみられる反米ではなく、今現に起きている問題点を指摘した上で、生活者の立場に立った視点で物事を考えているところにあるからだろう。
 「はだしのゲン」では、マイノリティに対する日本の問題は朴さんという人物に、アメリカが行ったこととアメリカ人一人ひとりは違うというスタンスは被爆した米兵捕虜に同情する主人公に通ずるものがあると考える。 と同時にある種のリアリズムもあり、「うじ虫の歌」での一人の日本兵に殺された沖縄戦の孤児がたどる運命は現実の残酷さを感じさせる作品である。「オキナワ」が少年向けの作品であるのに対し、「うじ虫の歌」が大人向けの作品であることの違いもあるかもしれない。 いずれにせよ、「はだしのゲン」を読んだことのある読者は一読する価値のある作品であると考える。

(以上、「Amazon.co.jp:カスタマーレビュー 中沢啓治著作集3 オキナワ」の2017年4月29日投稿分より)

 この時は意識していなかったが、4月29日は昭和天皇の生誕の日であった。中沢は存命中昭和天皇の戦争責任を強く指摘し続けた漫画家であった。中沢の昭和天皇への批判は単なる左翼特有の天皇制批判のイデオロギーをぶつというものではなく、自身が受けてきた原爆による被ばく体験およびそれによって受けてきた差別、偏見の苦しみを受けた原因を何かを問い続けた結果、昭和天皇をはじめとした指導者層の戦争責任のみに留まらず、日本社会全体および一人ひとりの民衆に対する戦争責任を追及するものでもあった。そしてその戦争責任は、日本が1931年の満州事変に始まる15年戦争だけではなく、朝鮮の植民地化を含め、近代日本はアジア諸国を己の利害のために侵略し続けたとする考え方に至り、中沢の作品「はだしのゲン」で朴さんというキャラクターを登場させ、また中国における日本軍の民衆を殺害するセリフを主人公に言わせた形で描写された。

 このような中沢の思想は、藤岡信勝ら「自由」主義史観の持ち主はもちろん、安倍晋三をはじめとする保守イデオロギーを強調する政治家からは、日本を貶め侮辱するものであるとして強い反発がある。しかし、私は中沢が批判をしているのは日本社会の持つ体質と構造であると考える。中沢は被爆者であることを理由に、日本社会の持つ体質と構造の中にあって被差別的な扱いをされ続けてきた。それゆえ中沢自身は被爆者であることを隠したかったということを述べており(※1)、その意味では「はだしのゲン」を描くには葛藤があったことをうかがい知ることができる。そうした背景を考えると少なくとも、中沢をイデオロギー的な理由で批判をする資格があるのか、少なくとも戦争を体験していない戦後生まれが炯々に批判をする資格があるのか、という想いを私は抱かずにはいられない。

 「オキナワ」は1970年に週刊少年ジャンプに連載された漫画だが、実はこの作品は1973年の「はだしのゲン」よりも前に連載された漫画である。前述した通り、中沢は日本社会の不条理さ、理不尽さを描き続けてきた漫画家であった。そこにあるのは、日本社会の中にある不条理さ、理不尽さを私たちに理解し行動に移してほしい、というかすかな希望もそこに表れていたのではないだろうか。

 私を含め、戦後に生まれた者の責任は二度と戦争を起こさないために、過去から何を学ぶのか、なぜ日本は戦争の選択をしたのか、そしてその選択がなぜ破滅の道に向かっていったのか、というプロセスを追及することが求められるだろう。歴史にifはないというが、政治において戦争を回避できなかったということが事実なのか、そのことも問われているのではないだろうか、と大学で政治学を専攻した私は思わずにはいられないのである。

(※1)

皆が集まっているイラスト1

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