「「死刑執行」から死刑を考えるシンポジウム」(2024年1月13日東京弁護士会開催)への感想
概要
今年の1月13日、東京弁護士会が主宰する「「死刑執行」から死刑を考えるシンポジウム」(※1)に行った。内容は3部構成であり、第1部は監督門井肇による主人公である刑務官が死刑囚の死刑執行に携わるまでの様子、死刑執行後に取得した休暇における言動を描いた「休暇」(原作:吉村昭「休暇」)の上映、第2部は死刑執行された後の遺体の引き取りに携わった弁護士によるパネルディスカッション、第3部は某死刑囚が死刑執行を告げられてから死刑執行に至るまでの2日間の状況を、当時の大阪拘置所元所長玉井策郎が秘密裏に録音した音声の再生であった。(※3)
本来であれば、全部を紹介したいところであるが、第2部については、司会者より内容についてはこの場限りにしてほしいとの要望があった。内容をこの場限りにしてほしいとの理由について司会者からは説明がなかったが、元死刑囚のプライバシーや当該元死刑囚の家族、知り合いに対する「配慮」によるものと推察される。そのため、ここでは第1部の映画「休暇」、第3部「死刑執行まで2日間の録音記録」について触れたい。(※4)
第1部 映画「休暇」について
第1部の映画「休暇」について、主催者側は、死刑執行時の踏み板を外すボタンを押す係、落下した死刑囚の身体が宙ぶらりんにならないように身体を受け止める係、首に縄を掛ける係といった役割分担に関する具体的な描写や死刑執行の死刑囚、刑務官、教誨師の状況をリアルに再現しており、死刑の問題点を描いた点で評価できる映画であると語っていた。だが、私は以下の点から当該映画は死刑の問題点を描いた作品ではないと考えている。
この映画は、拘置所に勤務する刑務官平井透を中心とした構成となっており、死刑囚である金田真一は平井と接点が関わる形で付随的な立場に置かれている形でしか描写されていない。そのため、金田が不安によって興奮したり、金田が犯したであろう罪を象徴する二つの影の描写や、死刑執行の際に泣き崩れるといった感情、心理は描写されても、金田が自身がなぜ事件を起こしたのか、また金田自身が事件をどのように考えているのか、あるいは考えていないのかといった具体的な状況は表現されていない。そのため、死刑に関心がない視聴者は、金田に対して無機質で非人間的な何を考えているのかわからない人物と評価し、金田自身を過ちを犯した以外は私たちと同じ人間であるという発想には至らず、死刑囚は自分たちと異なる「異形」の存在としか感じないのではないか。
現に、死刑囚を演じた西島はシネマ・カフェのインタビューで当初は得たいの知れないモンスターとして演じていたが、監督が人間味のある男として演出したが、それが結果としてよかったと語っている。(※5)そこからは、死刑囚を演じた西島自身が、死刑囚、罪を犯した者を人間扱いしていないよう見せることが自然であると考えていたことがわかる。この西島の姿勢は、韓国映画「私たちの幸せな時間」で死刑囚を演じたカン・ドンウォン、死刑囚との面談を通じて自身が受けてきたトラウマに向き合うヒロインを演じたイ・ナヨンが韓国の刑務所を訪れ、死刑囚と面会をし、実際の死刑囚を理解しようと試みたのとは対照的である。(※6)
もちろん、韓国の場合、確定死刑囚に対する面会などが日本ほど厳しくはなく、実際の死刑囚を理解することに対するハードルが日本ほど高くはないという事情がある。日本の場合、手紙のやり取りの制限、死刑囚が面会できる人物に対する制限、面会時間自体の制限のほか、そもそも死刑囚と関係のない第三者が死刑囚と会うこと自体が事実上許されていない。そうした状況においては死刑に関心を持たせない状況になっており、西島のみならず他の映画関係者なども含め、死刑囚の役を演じる際には実際の死刑囚と会うことが必要だという発想が生まれにくいのは自然な事である。(※7)
ただ、死刑廃止を主張する立場にある者が、死刑に対する姿勢が不明瞭な「休暇」を死刑の問題性を描いたと主張することには、以上の点から疑問を抱かざるを得ない。死刑廃止運動を行っている法曹関係者、運動家の主流がこのような姿勢であることに、私は世間一般の死刑に対するイメージの固定化が継続される一因となっているのではないかと考える。
第3部 「死刑執行まで2日間の録音記録」
当該死刑廃止のシンポで意義があったとしたら、玉井によって録音されたある死刑囚の死刑執行の宣告から執行に至るまでの経緯記録の公開であろう。実際の死刑執行に至るまでの状況については、脚注(※4)のyou tube動画をお聞きいただくこととして、ここではこの録音を行った玉井の死刑囚に対する姿勢について述べたい。
玉井は大阪拘置所長を退任した後、1956年に参議院の法務委員会での国会議員による死刑廃止法案の提出の際に、当該法案に賛成の立場から公述人として出席した。玉井は刑務官は教育者であり、死刑は教育としての良心を示すことはできないとの立場を示した。その上で、死刑囚は真人間になれない極悪非道な悪人と決めつけていいのかと問いかけた上で、自身が携わった46人の死刑囚はその性質においては善であり、反省をしてからの彼らの心の持ち方は自分たちよりもはるかに優れていたと述べた。(※8)
以上の見解からは、玉井が自らが犯した過ちに向き合うことで人間性を理解、回復するという姿勢で臨んでいたことがわかる。そこには死刑囚を、凶悪犯だからという偏見、色眼鏡を前提に「異形」の存在とみなすのではなく、私たちと同じ人間であると考えていることがわかる。これについては、彼らに更生の余地などないと主張する意見が日本では主流を占める。しかし、私は、本当に過ちを犯した人間がやり直そうという気持ちに代わるという可能性を全否定できるのか、その可能性の可否を神ならぬ人間が判断できない以上、生命の可否を人間が決定できないのではないかと思わずにはいられない。
もちろん、その主張をするのであれば、罪を犯した者がどのように罪に向きあい、そして過ちを繰り返さないようにするにはどうすべきかという具体的な方策が求められるだろう。罪を犯した者のやり直しをどうするか、過ちを再び犯さないようにするためのあり方をどう築くべきか、その点についてこれからも皆さんと一緒に考察して参りたい。
私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
脚注
(※1)
「死刑執行」から死刑を考えるシンポジウム(1/13) - 東京弁護士会 (toben.or.jp)
(※2) 「WAKUWAKUホーム」報告会&「プリズン・サークル」上映会 | 認定NPO法人豊島子どもWAKUWAKUネットワーク (toshimawakuwaku.com)
映画『プリズン・サークル』公式ホームページ (prison-circle.com)
(※3) 当該録音についてはyou tube上でも「死刑廃止フォーラム90」によって公開されている。
(※4) 死刑廃止論の立場からは、死刑囚の処遇に関する状況、死刑執行の状況、なぜ当該死刑囚が死刑執行の対象となった理由、死刑執行が決まるに至った手続きなどに関して世間一般に知らせないことなど、死刑について当局の閉鎖性を問題視する意見も多い。死刑廃止の立場にあるのであれば、せめて死刑囚の匿名を条件に、死刑囚が死刑にされた後どのような処遇をされるのかという形で説明すればよかったのではないかと個人的に考える。
(※5)
「最初はモンスターとして演じていました」西島秀俊、死刑囚を演じた『休暇』を語る | cinemacafe.net
(※6)
2/3 『私たちの幸せな時間』監督インタビュー [韓国エンタメ] All About
(※7) 自身の想像を膨らませて表現するために、敢えて現状を知ろうとしない文学、芸術手法があることは認識しているが、話が複雑になるのでここではそれには触れないこととする。
(※8)
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