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近藤紘一について(後編)(プラハの春、共産主義観を中心に)

 前回は「近藤紘一について(前編)ーベトナム戦争を中心に」をご紹介しました。(※1)後半は近藤氏のプラハの春、共産主義観についての考察をご紹介します

プラハの春に対する見解

 1968年、産経新聞社の語学研修でパリに滞在していた近藤は「プラハの春」に遭遇する機会を得た。当時チェコスロバキアは、チェコスロバキア共産党第一書記アレクサンドル・ドプチェクが掲げる「人間の顔をした社会主義」の下に自由化路線を進めていた。近藤の著作「したたかな敗者たち」では、近藤が知り合ったプラハの学生ミハル青年が「プラハの春」で自由を満喫している幸せな様子が描かれている。(※2)だが、「プラハの春」はソ連、ワルシャワ条約機構の介入によって潰され、ミハル青年はスイスに亡命することとなった。そのときの状況を近藤は以下のように振り返っている。

 二週間余り、「プラハの春」を見物したのち、西ドイツ経由でフランスに戻った。ミハル君はじめ、滞在中に接触した何人かの知識人、学生たちの反ソ感、それに、あまりにも抑制なく花開いてしまった「春」の行く手に、一抹の不安も感じた。こうも真っ向からメンツを汚されてはモスクワも堪忍袋の緒を切らすのではないか。たとえ人々の信望と尊敬に支えられていても、ドプチェク氏の路線はナイーブすぎるのではないか。現に、モスクワはすでにワルシャワ条約機構軍に合同演習の号令を下していた。(※3)

 近藤のプラハの春に関する考察からは、当時ソ連の衛星国であったチェコスロバキアの立ち位置、西側諸国がソ連を敵に回しても自由と民主主義の大義の下にチェコスロバキアを支援するのかという点も踏まえ、冷静に分析をしているリアリズムを感じることができる。私たちはともすると、外国において自由と民主主義を守る、謳歌する、そのために闘うというニュースに接したときに政治情勢、社会情勢をきちんと踏まえずに同情論や共感論で考えがちである。しかし、たとえそれが自由と民主主義を目指す方向性であったとしても、政治家が政治的な判断を誤った場合には、当事者に不幸をもたらすことがあることを近藤のリアリズムから学ぶべきであろう。

共産主義全般に関する考察

 近藤はプラハの春とベトナム戦争との比較について次のように述べる。

 プラハで試みられたのは、パリ交渉で闘い取られようとしているのと逆方向の「解放」だった。ベトナム解放とチェコ解放ーむろん両国の歴史的、社会的、その他の固有の民族環境的諸要素を無視して二つの「解放」を比較するのは、乱暴すぎよう。だが、それを承知で、あえてせんじつめてしまえば、やはり一方は共産主義による(「による」の部分は本文では上に ’ で強調)解放であり、他方は共産主義からの(「からの」の部分は本文では上に ’ で強調)解放を志向したもの、と規定して差しつかえないのではないか。(※4)

この引用個所からは、共産主義について紋切り型のイデオロギーで語ることができないという近藤の想いをうかがい知ることができる。中国、ベトナムといった国は列強諸国によって植民地、半植民地として抑圧、搾取されていたが、これらの国では民族独立運動の役割を、列強の搾取からの解放という形で共産党が果たした。私たちはともすると共産主義をイデオロギーとして考えがちだが、共産党の位置づけが国によって異なっていることを認識するべきだろう。

 なお、社会主義国以外でも共産党が民族解放や人種差別解放の一員として協力をした事例はある。かつてインドネシアのスカルノ政権においては共産党が支持基盤の一つとなっていた。ここにおいては、共産主義社会を目指すというよりは民族解放勢力の一員としての位置づけによるものである。(※5)また、新生南アフリカの政権党であるANC(南アフリカ民族会議)は内部に南アフリカ共産党を抱えている。この場合は、南アフリカ共産党がANCとともにアパルトヘイト体制に反対し、闘争を行ってきたことに由来する。これらの国々でも私たちが考えるような共産党=ソ連(現在では中国、北朝鮮のほうがそのイメージが強いが)の抑圧体制というナイーブな図式で語ることができないことを認識するべきだろう。

 ベトナム戦争が社会主義革命のほかに民族主義闘争という複雑な状況が絡み合った戦争であったことについて、近藤は次のように語っている。

 ぼくは植民地支配を受けていた国で解放闘争をすると、よほどすぐれた自由主義的独裁者みたいなものが出てこないかぎり、社会主義革命あるいは共産主義革命の形をとらざるをえないのではないか、といまでは考えることがある。自由主義的独裁者という存在はすでに表現上からも矛盾で、並みの存在ではどうしても買弁化していく。となると残念ながら社会主義あるいは共産主義革命以外ないのではないか。ただそのことははっきり書かなければならない。書かなかったがために、解放後、あるいは制圧後のベトナムの現状が何もわからなくなってしまった。読者にとっても、そして結果的にはおそらく現在のベトナム国家にとっても迷惑な話だろうと思う。(※6)

 プラハの春から21年後の1989年、チェコスロバキアは「ビロード革命」によって共産党一党支配を放棄し、複数政党制による議会政治が行われることとなった。「プラハの春」で失脚したアレクサンドル・ドプチェクはチェコスロバキア連邦議会の議長として復権した。チェコスロバキアはチェコ共和国とスロバキア共和国に分離し、両国ともEU、NATOに加盟し、西側諸国の一員となった。南北統一後のベトナムは当初は硬直した社会主義政策を試みたものの、現在は共産党一党独裁を堅持しながらもドイモイによる経済自由化政策を行い、現実的な路線を歩んでいる。近藤紘一は1986年に亡くなっているので東欧革命やドイモイの事実は知らない。近藤が生きていたら東欧革命、ドイモイをどのように評するのかを知りたいところである。

戦争批判は高みの見物でしかないのか

 今回の露宇戦争、ベトナム戦争から、私が感じることは日本のメディアの報道姿勢が視野が狭くいかに単調かつポピュリズム的であるかということである。ただ、メディアが当事国の状況について正確性や状況の背景をきちんと細かく丁寧に分析し伝えるという姿勢が欠けていることも事実だが、私たち読者の側が報道内容について受け身で、主体的に考えることに欠けていることもそうした傾向に拍車をかけている一因になっているのではないだろうか。以下に掲げる近藤紘一が読者に求めることはそのことを見事に指摘している。

 そもそも、東南アジア報道にかぎらず、読者はなぜ新聞の不過謬性などという神話を信用するのだろう。口ではいろいろ言いながら、なお多くの人々は「新聞にそう書いてある」という表現で判断を依存する。心の底にこの不過謬性の神話があるから、ときに妙な新聞批判が出てくる。報道に試行錯誤は許されぬとはいえ、書き手もまた人間である以上、いくら努力してもミスをおかすことは避けられない。(略)
 人々は、多忙を理由に、とかく各事象についての判断(「判断」の部分は本文では上に ’ で強調)を新聞に依存しがちである。自ら判断する努力を放棄して新聞に頼る姿勢は、自らの「個」を放棄することにつながるのではないか。
 こんなことをいうと、ある人々は逆に報道者の使命の放棄あるいは責任逃れ、と非難するかもしれない。私はそうは思わない。報道は一方通行の業務ではない。読者のある種の積極性と双務性のうえに成り立つものであり、私たちの役割の限界は、結局のところ、その積極性をさらに刺激する材料を提供することにとどまる、と考えるからである。(※7)

皆が集まっているイラスト1

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(※1) 

(※2) 近藤紘一「したたかな敗者たち」 「第二部 パリの革命家たち」P117~P124 文芸春秋

(※3) 近藤紘一「したたかな敗者たち」 「第二部 パリの革命家たち」P123 文芸春秋

(※4) 近藤前掲「したたかな敗者たち」 「第二部 パリの革命家たち」P126 文芸春秋

(※5) 後に共産党との距離感を巡り、1965年にクーデター未遂である9月30日事件が起こる。このクーデターについてはインドネシア共産党が関わった説と軍部・保守勢力による共産党弾圧の口実に使われたという説と様々だが、詳細はわかっていない。この事件で権力を握ったスハルトはインドネシア共産党を弾圧し、以後反共政策を取るようになる。

(※6) 古森義久・近藤紘一前掲「国際報道の現場から」 「Ⅱ 国際報道、その問題点」P72 中公新書

(※7) 古森・近藤前掲「国際報道の現場から」 「Ⅲ 国際報道をどう読むか」P182~P183 中公新書

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