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「密林の聖者」とはどの視点によるものか③-日本人のシュバイツァー観への疑問-

 シュバイツァーのガボンでの医療活動を単純に日本人が人道主義的とみなしてきたことに対する考察記事です。1回目は私のシュバイツァー観と寺村輝夫氏のシュバイツァーのガボン民衆、社会への姿勢に対する批判的見解をご紹介しました。2回目はシュバイツァーの著書「水と原生林のはざまで」を中心にシュバイツァー自身がガボン民衆、社会にどのような姿勢で向き合ったのかを考察します。3回目の今回はシュバイツァーの植民地主義について考察したいと思います。


シュバイツァーのガボン観

植民地主義を前提としたヒューマニズム

 前回述べてきたシュバイツァーのガボンの人々、社会慣習への無理解に加え、ガボンの人々は高等教育を受けても彼らは居場所がないから高等教育を受けさせるべきではない、とするシュバイツァーの以下の見解と重ねると、シュバイツァーが持つ植民地主義の問題に無自覚であることの問題点がより深刻であることがわかる。

 原始的種族の土人が高等の学校教育を受けることはそれ自体不必要なこととわたしは考える。文化のはじまりはここでは知識ではなく、手織と耕作であり、これによってはじめて高い文化と獲得する経済的条件を備え得る。

シュバイツァー「水と原生林のはざまで」 P122

シュバイツァーは現実問題として、植民地行政を担う公的機関で働く公務員、植民地資本による企業で働くガボンの人々が必要であること、彼らの優秀性を認めてはいる。(※1)しかし、彼らについて以下のように評している。

 この種の人々(注:公的機関、宗主国などの企業代理店で働くだけの知識を得ているガボンの人々)はどうなるであろう?彼らは外国へ働きにゆく者とまったく同じように、村から根こそぎにされる。彼らは代理店で暮し、土人の陥りやすい詐欺や酒癖の危険にたえずさらされる。おそらく、所得は多いが、食糧品をすべて高く買わなければならないうえに、黒人通有の消費癖からいつも貧乏して、たびたび金に困窮する。彼らはもう普通の黒人には属さず、そうかといって白人でもなく、両者の合の子となる。

アルベルト・シュバイツァー 野村實訳「水と原生林のはざまで」岩波書店 P122

 そもそも黒人の消費癖ということ自体が偏見でしかないのだが、ここではシュバイツァーが高等教育を否定する問題点を指摘したい。もし、ガボンの人々への高等教育否定の論理を徹底的に貫けば、理論上は愚民化によって、ガボンが植民者にとってより都合のいい支配が強化されることになる。そのことがガボンの人々の本当の意味での理想になるとは私は考えない。

 また、シュバイツァーは植民地自体の問題点を認識しつつも、以下のように肯定している。

 未開民族または半未開民族ー私の述べる経験は、ただこれらのものとの関係であるがーを、われら白人が強制して支配する権利があるか?ーもしもわれらがかれらをただ支配し、その国土から物質的利益を獲得せんとするのみなら、答は否である。もしもわれらがかれらを誠実に教育し幸福に導いてやる気なら、答は肯定である。

アルベルト・シュバイツァー 竹山道雄訳 「わが生活と思想より」 白水社 P222

 その上で自分だけで独立して生活できる可能性があれば自治せしむべきとしつつ、経済のグローバリズム化(※2)に対して、ガボンの地域社会における有力者たちが自身の都合のいいように民衆を支配して労働させている状況にあるとしている。シュバイツァーは、ガボンの独立によって有力者の支配下に民衆が置かれるのと、植民地の支配とどちらがいいかと問いかけて次のように結論づける。

 われらヨーロッパ人の委託を受け、われらの名において植民地を統治経営した者で、未開人の酋長にもおとらぬ不正、暴力、残忍を行って、われら白人に大きな罪を塗った者の数すくなからぬのは、あまりにも明らかな事実である。今日なお土人に加えられたる罪業についても、沈黙したり容赦すべきではない。しかし、植民地の未開人や半未開人に独立を与えんとするのは、かならずかれらのあいだでの奴隷化が始まる端緒であるから策の得た罪滅ぼしとならない。唯一の方策は、われらが現に与えられている支配権を土人の幸福のために活用して、この支配権を道徳的に裏書きされたものとする、にある。

アルベルト・シュバイツァー 竹山道雄訳 「わが生活と思想より」 白水社 P223

 シュバイツァーは「善政」を強調しているが、植民者がガボンの民衆、社会を支配するべきという意味では植民地主義以外の何物でもない。岡倉登志は、シュバイツァーの植民地観は、社会進化論であり、エルネスト・ルナンと共通すると指摘する。(※3)(筆者注:2023年12月11日に文章を訂正。詳細はコメント欄を参照のこと)

 シュバイツァーの植民者からの   「善政」という主張は現地の人にとっては受け入れがたいものでしかなかった。だからこそ、ガボンをはじめアフリカ各地で独立の機運が高まりつつあった1951年、「水と原生林のはざまで」の改訂版を出版する際、シュバイツァーが記したはしがきの以下の文面は、自らの植民地主義の誤りを事実上認めるものとなった。

 われわれはみずからを兄と考え、またそのように行動することを断念しなければならない。今日の有力な意見によれば、進歩向上の時代の到来は、弟が大人とみなされ、兄と同等の資格の分別のあるものとされ、また原住民も次第に自国の運命をになうという条件のもとにおいてのほか可能でないというのである。このように時代の精神は決定した。その精神はあらゆる事がらにまた全地に、家長主義のかわりに反家長主義をおきかえるために、家長主義に残存するものを廃止することを望んでいる。反家長主義は定義することが困難であるし、またそれを実現することはもっと困難である。

シュバイツァー「水と原生林のはざまで」 P8

 以上、シュバイツァーの植民地主義について批判的に考察をしてみた。次回以降は、シュバイツァーに対する各者の論評について、それぞれご紹介するとともに、各論評について皆さんと一緒に考察して参りたい。

(次週は別の記事を掲載する予定です。)

お知らせ

 次週は都合により、来週土曜日11月18日の朝8時から12時の間に掲載予定となります。よろしくお願いします。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1) アルベルト・シュバイツァー 野村實訳「水と原生林のはざまで」岩波書店  P122

(※2) シュバイツァーはこれを「世界商業がこの原始民族の中へも入り込」んだと表現している。(シュバイツァー「わが生活と思想より」白水社 P222)

(※3) 岡倉登志「西欧の眼に映ったアフリカ」明石書店 P101

なお、岡倉はエルネスト・ルナンを次のように評する。

 われわれが目標とするのは平等ではなく、支配である。異人種の国は、農奴、日雇農夫、工場労働者の国にふたたび戻すべきである。人間のあいだの不平等をなくすのではなく、これを拡大し、一つの法たらしめなければならぬ。

 これは、ヒトラーの発言であろうか。いや、フランスの宗教哲学者エルネスト・ルナン(1823~92)(注:原文は漢数字)が『知的・道徳的改革』に書いていることだ。
 彼は、ヨーロッパ人を貴族的人種とみなした。それは、ヨーロッパ人を黒人や中国人のように牢獄で労働させたりすれば反乱を起こすからだというのだ。そして、人種の本性によって職業、さらには階級までが決まると考え、「人おのおの、おのれに適した務めを果たすべし。されば、万事まるく収まろう」と結んでいる。

岡倉登志「西欧の眼に映ったアフリカ」 P94~P95 明石書店

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