「密林の聖者」とはどの視点によるものか③-日本人のシュバイツァー観への疑問-
シュバイツァーのガボンでの医療活動を単純に日本人が人道主義的とみなしてきたことに対する考察記事です。1回目は私のシュバイツァー観と寺村輝夫氏のシュバイツァーのガボン民衆、社会への姿勢に対する批判的見解をご紹介しました。2回目はシュバイツァーの著書「水と原生林のはざまで」を中心にシュバイツァー自身がガボン民衆、社会にどのような姿勢で向き合ったのかを考察します。3回目の今回はシュバイツァーの植民地主義について考察したいと思います。
シュバイツァーのガボン観
植民地主義を前提としたヒューマニズム
前回述べてきたシュバイツァーのガボンの人々、社会慣習への無理解に加え、ガボンの人々は高等教育を受けても彼らは居場所がないから高等教育を受けさせるべきではない、とするシュバイツァーの以下の見解と重ねると、シュバイツァーが持つ植民地主義の問題に無自覚であることの問題点がより深刻であることがわかる。
シュバイツァーは現実問題として、植民地行政を担う公的機関で働く公務員、植民地資本による企業で働くガボンの人々が必要であること、彼らの優秀性を認めてはいる。(※1)しかし、彼らについて以下のように評している。
そもそも黒人の消費癖ということ自体が偏見でしかないのだが、ここではシュバイツァーが高等教育を否定する問題点を指摘したい。もし、ガボンの人々への高等教育否定の論理を徹底的に貫けば、理論上は愚民化によって、ガボンが植民者にとってより都合のいい支配が強化されることになる。そのことがガボンの人々の本当の意味での理想になるとは私は考えない。
また、シュバイツァーは植民地自体の問題点を認識しつつも、以下のように肯定している。
その上で自分だけで独立して生活できる可能性があれば自治せしむべきとしつつ、経済のグローバリズム化(※2)に対して、ガボンの地域社会における有力者たちが自身の都合のいいように民衆を支配して労働させている状況にあるとしている。シュバイツァーは、ガボンの独立によって有力者の支配下に民衆が置かれるのと、植民地の支配とどちらがいいかと問いかけて次のように結論づける。
シュバイツァーは「善政」を強調しているが、植民者がガボンの民衆、社会を支配するべきという意味では植民地主義以外の何物でもない。岡倉登志は、シュバイツァーの植民地観は、社会進化論であり、エルネスト・ルナンと共通すると指摘する。(※3)(筆者注:2023年12月11日に文章を訂正。詳細はコメント欄を参照のこと)
シュバイツァーの植民者からの 「善政」という主張は現地の人にとっては受け入れがたいものでしかなかった。だからこそ、ガボンをはじめアフリカ各地で独立の機運が高まりつつあった1951年、「水と原生林のはざまで」の改訂版を出版する際、シュバイツァーが記したはしがきの以下の文面は、自らの植民地主義の誤りを事実上認めるものとなった。
以上、シュバイツァーの植民地主義について批判的に考察をしてみた。次回以降は、シュバイツァーに対する各者の論評について、それぞれご紹介するとともに、各論評について皆さんと一緒に考察して参りたい。
(次週は別の記事を掲載する予定です。)
お知らせ
次週は都合により、来週土曜日11月18日の朝8時から12時の間に掲載予定となります。よろしくお願いします。
私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
脚注
(※1) アルベルト・シュバイツァー 野村實訳「水と原生林のはざまで」岩波書店 P122
(※2) シュバイツァーはこれを「世界商業がこの原始民族の中へも入り込」んだと表現している。(シュバイツァー「わが生活と思想より」白水社 P222)
(※3) 岡倉登志「西欧の眼に映ったアフリカ」明石書店 P101
なお、岡倉はエルネスト・ルナンを次のように評する。
サポートいただいたお金については、noteの記事の質を高めるための文献費などに使わせていただきたくよろしくお願い申し上げます。