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部活からの自由

「人間育成」の名の下に利用される部活

 部活動は生徒の自主性および自発性に基づいて行われる活動である。しかしその原則が無視され、顧問が指導の名の下に暴力、横暴を行うほか、退部を許さない部活が存在することについては繰り返し述べてきたところである。こうした非民主的で人権上問題がある行為は、社会性を身につけるために必要であると正当化され続けたため、部活動中の事故による死亡や重度の障害、自殺といった最悪の状況を生み出し続けてきた。

 ただ、部活によって社会性を身につけるという論理は、顧問の横暴さや陰湿な人間関係がまかり通っている部活動においてのみ使われる論理ではない。例えば、島沢優子は著書「部活があぶない」(講談社)の中で、部活動における顧問の横暴や部員個々人の事情を無視して部活動を優先させる部活動の問題点を批判する一方、筑波大学教授で精神科医の太刀川弘和への取材の形を通して次のように主張する。

他人との協調性や、問題解決能力、自己決定能力などを養う場として、部活の場が緊急性をもって注目を浴びているのだ。
太刀川さんは部活について、「仲間と濃厚なコミュニケーションができる機会を得ることによってソーシャルスキルを身につけられる部活は、若者の自殺を防ぐ効果が期待できる」という。(※1)

その上で、島沢は、だからブラック体質の部活は問題であり、その体質を改善することが必要であると結ぶ。しかし、この主張は部活動はソーシャルスキル(※2)を身につけるのに必要であるから、部活動は奨励されるべきものであるということを前提にした論理構成である。

 私は、この一文を読んだときに、部活動や学校生活以外の場であるサークル活動、稽古ごと、塾、アルバイトなどといった学校とは異なる社会ではソーシャルスキルは身につかないのかと感じた。特にアルバイトは現実の社会で労働をしている人たちと接する場であり、閉鎖的で活動範囲が狭い学校での活動よりも直接社会の理不尽さや辛さを目にすることもある。労働を通じてお金を得ることの意味も含め、将来どういう職業を選ぶのか、社会のあるべき姿や社会にどのように向き合うべきかを考える意味ではアルバイトのほうが部活動よりも適している。

 しかし、学校の中には部活動を優先させ、学業が疎かになるなどの理由でアルバイトを禁止している学校も少なくない。学校の目が行きわたるところに生徒を留めておきたいという管理教育の一環として、部活を利用したいという本音をうかがい知ることができる。部活動をソーシャルスキルを身につける場の一つとして奨励するのであれば、ソーシャルスキルを身につける場が部活動以外にも多様にあり、部活動は選択肢の一つでしかないということが前提とされなければならない。

生徒のためと言われ続けてきた部活

 部活が人間育成の名の下に使われるのと関連して、部活は生徒が希望するから行われるべきとの主張が展開される。その論理の背景を実証的に分析した論文としては内田良編「部活動の社会学」がある。同著の中で野村駿の担当した「第2章 部活動問題はどのようにして語られてきたのか」において次のような指摘がある。

(1991年10月14日朝日新聞の学生の投書について)学校週五日制により塾の集中講義や土日泊りがけの講義、自宅での課題の増加が危惧されている。そして、その対抗策として、子どもが「興味を持って生き生きと活動をする場」を確保するために、「土曜日は「部活動の日」」とすることが提案されている。同じく、「部活を通して得ること多い」という見出しの記事では、「週5日制に反対している先生もいる。「五日制になると部活の時間が減ってしまうため、部活で力を出す子が、かわいそう」と言うのだ。私は、この先生の意見に賛成する。私も部活の時間が減ったと思うとさみしい。もう少しでいいから、生徒の意見も取(原文ママ)り入れて決めてほしい」(一九九二年九月七日・中学生)とあり、学校週五日制への意向に対して、特に部活動をやりたい「生徒の意見」を考慮することが生徒自身によって主張されている。
これらの記事では、学校週五日制との関連において、部活動時間の確保・増加を主張するものである。(※3)

学校週五日制導入に伴う土曜休校は、生徒個々人が自由に土曜日の時間を活用する目的で本来設けられたはずである。にもかかわらず、塾の勉強に専念する生徒がいることが懸念されるとして、土曜日を部活動の日にするという発想自体に、部活動に関心がないあるいは否定的な生徒の主体性を無視するものなのだが、これらの記事にはその発想はない。当時は、部活動に熱中するあまりに家族との時間がなくなることを懸念する記事があっても、それらに対しては当時批判のあった「学力社会」批判の形で部活動を奨励すべきとの反論が強く出る傾向にあったという。野村は、

「学力社会」のアンチテーゼとしての部活動という認識は広く共有されていたと考えられる。(※4)

として、部活動とりわけ運動部の活動について、勉強、特に受験勉強に対する否定的見解の正当性の一環として奨励される論理が展開されていたと指摘する。それについては

知育偏重の「学力社会」批判を背景に、部活動の教育的意義を主張する声が特に子どもから上げられていた。そのほとんどは、部活動問題への具体的解決策を提示していなかったが、一切の反論もなされなかった。したがって、当時の部活動は、「子どものため」というマジックワードによって、異論の余地なく存在していたと考えられる。(※5)

として部活動の当事者である生徒の要望という形をとることで部活動に内在する問題が省みられないまま、部活動自体が望ましいものとして語られてきた。もちろん、前述したようにそこには部活動に関心がない生徒の意見などが省みられている形跡はない。飽くまでも部活動に意義を見出そうとする生徒の意見のみがあるべき部活観とされ続けてきたのである。

 野村の調査によると、部活動にまつわる問題点に関する記事が頻発するのは、2012年に大阪市立桜宮高校での男子バスケットボール部のキャプテンの自殺事件が起きてからだとしている。(※6)桜宮高校での自殺事件の前にも2009年に大分県竹田高校剣道部キャプテンが顧問の指導に名を借りた虐待によって熱中症で死亡した事件をはじめ、部活動内における痛ましい事件は起きているが、桜宮高校での自殺事件まで部活動自体の問題がメディアの場で認識されなかったことに驚きを禁じ得ない。

 また、桜宮高校の事件を機に、教育関係者以外から部活動での長時間拘束などをはじめとした部活動自体への問題点を指摘する声が出始めたとしている。(※7)また、部活動の長時間拘束については、部活動の当事者である生徒からも批判的意見が2010年代後半頃から出されるようになったとしている。(※8)部活動を巡って自殺者が出てメディアが大きく報じない限り、部活動自体の問題点が表面化されにくいところに、学校の閉鎖的体質のために世間が学校の問題を認知しにくい状況にあることをうかがい知ることができる。

部活を特別視しない環境の整備を

 以上、部活について特別視する状況に対する問題点について述べてきた。部活を特別視する状況こそが生徒と教師を苦しめ、部活に対する問題点が隠蔽化されていると言えるのではないか。こうした状況からか、文部科学省は2023年をメドに休日に部活動を地域のスポーツクラブなどに委ねること、休日の部活動を希望する教員には地域活動の一環として活動するといった改革案を出しているという。ただし、休日の部活動が地域活動の一環となっても教師がそこに関与することができることで事実上現状と変わらない状況が起きる可能性があること、生徒が地域活動の形で引き続き部活動を行うことができることなど、地域活動が形骸化することに対する懸念もある。(※9)そうした形骸化への懸念に内田は以下にように指摘する。

地域移行の成否は、「学校を引きずらない」ことにかかっている。(※10)

地域活動は学校とのかかわりを完全に断ち切り、加熱しやすい部活による犠牲を防ぐことが肝要である。

 繰り返しではあるが、部活が学生生活の一部に過ぎないこと、学生の本分が勉強にあること、学校以外の社会活動やサークルなどに参加したり、アルバイトを行うなど様々な経験をすることが、青少年期における人間の成熟につながることを生徒が理解することが本当の意味で生徒のためになる。また、生徒自身だけではなく大人の側も職場や家族・近所などの同質的な集団に依拠するのではなく、社会活動、職場外のサークル活動への参加といった多角的な社会関係をつくることで生徒への見本とすることが求められていると言えよう。

皆が集まっているイラスト1

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(※1) 島沢優子「部活があぶない」P47

(※2) デジタル大辞泉によると「社会の中で自立し主体的であるとともに、他の人との協調を保って生きるために必要とされる、生活上の能力。社会技能」とある。

(※3) 内田良編「部活の社会学」P35~P36 なお太字は著者が入れたもの

(※4) 内田良編「前掲」P37

(※5) 内田良編「前掲」P41

(※6) 内田良編「前掲」P41

なお、先に引用した、島沢優子「部活があぶない」P82~P83では、この生徒の自殺について、オリンピック、プロ野球の元選手が生徒個人の問題である、体罰は必要悪であるなど肯定的な意見を主張していたことに触れている。また、体罰がなくなることで日本の選手が弱くなるとの意見を出した元女子バレーボールの選手の言葉に女子バレーボール界で暴力指導がまかり通ってきた現実を伝えることになったと述べている。

(※7) 内田良編「前掲」P43~P45

(※8) 内田良編「前掲」P45~P47

なお、野村は部活の必要性についての論理、部活の問題の改善についての論理、双方において「子どものため」という大義名分が使われていることを指摘している。

(※9) 内田良編「前掲」P202~206

(※10) 内田良編「前掲」P207

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