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神戸連続児童殺傷事件弁護団長の講演を聴く

イメージとしての社会治安「悪化」

 今年4月1日から施行された「改正」(※1)少年法では、18歳、19歳を「特定少年」と定義し、刑法上死刑、無期、1年以上の有期刑の懲役・禁固に該当する犯罪について検察官が刑事裁判手続きを行うこととなった。そのため18歳以上の未成年については検察官が刑事処分、保護処分を決定する「検察官先議」中心主義となり、刑事訴訟法上の成人とほぼ同様の扱いを受けることとなった。既に16歳以上の少年については、故意の行為で人を死亡させるなどの「一定の重大な事件」については検察官先議となっており、未成年について保護育成、更正を中心とするという観点から、家庭裁判所において刑事処分、保護処分を決定していた「家裁先議」原則はなし崩し的に否定されたと言えよう。

 また、併せて検察官起訴によって事件を起こした18歳以上の未成年についての実名報道が可能となった。(※2)メディアは実名報道の可否に関心が強く、青少年の育成をどうするかという点で大きく左右される「検察官先議」、「家裁先議」についての関心は低かった。よく、少年犯罪の増加、凶悪化が主張されるが、(※1)にある法務省の2015年から2019年のデータでは少年犯罪は減少しているほか、凶悪化の傾向は見られない。ただ、それでもより一層の厳罰化を求める声は強く、過ちを犯した者が更正するためにどうするかという視点では語られにくい。こうした動きが刑事政策に報復主義、厳罰主義的傾向を求める一因となっている蓋然性は高いと言えよう。

神戸連続児童殺傷事件弁護団長の講演について

 先月24日、私は永山則夫の直筆ノート、原稿、著作を管理する「いのちのギャラリー」が主催する「死刑と司法を考える~第2回 プリズンアカデミー・カフェ 少年事件厳罰化に抗して」に参加した。(※3)演者は神戸連続児童殺傷事件の弁護団長の野口善國である。講演では野口自身の半生、神戸連続児童殺傷事件を中心に未成年で犯罪を犯した者が犯罪に至った背景などが語られた。

 野口は大学時代、非行少年の保護を目的とした家庭裁判所の補導委託先施設「仏教慈徳学園」の園長花輪次郎に師事し、非行少年たちの面倒を世話をしていたという。野口は非行少年たちとの交流の経験を通し、学園に預けられた少年たちが犯罪を犯した背景には、家族仲の不和、虐待、愛情不足といった本人の努力だけでは何もできない問題があったとし、彼らに更正の余地がないという考え方はおかしいのではないかと考えるに至ったと語った。そうした大学時代の非行少年たちとの交流の経験から、司法の道を歩んだ際には家庭裁判所の裁判官になろうと思ったと言う。(※4)しかし、裁判官の権威主義的な態度や裁判官にへつらう同じ司法修習生の様子に嫌気を感じ、自分は宮仕えには向かないとして弁護士になったと語った。

 野口は、神戸連続児童殺傷事件について、少年の鑑定書にはよく父親や母親から殴られるなどしていたため、少年は自身をいらない子どもだと感じており、祖母にだっこされたことだけが肉親としての愛情を感じていたと記してあったと述べた。また、少年の母親は少年を愚図でよく泣く子どもであったと語ったという。

 当初、少年は野口から何を訊かれても「はい」、「別に」としか言わず、野口に会いたくないなどといった感情を出さなかったため、自分と少年との間に壁があるのではないかと感じたが、母親が面会に来たときに感情を表に出して怒鳴ったと語った。その後少年は野口に対し、自分は両親からいらない子どもと思われているのだから、死刑になっても構わないと語ったという。そうした少年の姿勢について、自分を大切にできないと考えているため、より弱い子どもに当たる形で事件を起こしたのではないかとの見解を示した。

 会場からの野口への質問では、太田出版から元少年が本を出版したことに事件や他人への配慮を何も理解をしていないのではないかとの問いがあった。これに対し、弁護士、保護司、医療少年院の関係者などの記述はなく、まったく他人への配慮がないとまで言いきれないと応えた。また、出版を巡って太田出版とケンカ別れになったことを考えると、出版社側からいいように乗せられた側面も否定はできないのではないかとの見解を示した。

 神戸連続児童殺傷事件の弁護活動は大変だったようで、とりわけメディアへの対応に野口は頭を悩ませたようである。マスコミからのアポなしの一方的な取材をどうやってかわすかということを考えたほか、文芸春秋1998年3月号に少年の供述調書が掲載されたときは弁護団が漏えいをしたのではないかと疑われたと語った。

 神戸連続児童殺傷事件以外にも野口が語った非行少年の境遇は重要であり、筆者としては紹介をしたいところではある。しかし、本編の主題は事件記事の匿名の可否についての検証のプロローグということで省略させていただくことをお許しいただきたい。講演内容の一部については(※3)にある野口の著書でも言及があったのでご参照いただきければと思う。

事件記事に匿名は必要か

 以上、神戸連続児童殺傷事件について弁護団長の講演内容を執筆した。ここで皆さんにお訊ねしたい。野口の講演内容を踏まえた今回の記事で筆者は元少年を匿名で書いてきたが、元少年の実名を公表しないと事件の背景、元少年の実態を理解するのは難しいと感じた方はおられるだろうか。

 私は、野口は事件を担当した弁護士の立場からかなり踏み込んで詳細に事件を語っており、元少年の名前を実名で出す必要性はないと考える。もちろん事件の全体像を探るには弁護団からの意見だけではなく、当時事件を取材した関係者、元少年の関係者、可能であれば事件被害者の関係者からの証言に関する文献を探る必要はあろう。ただし、その場合においても元少年の実名がわからないと事件の真相を探ることができないとは考えない。また、実名を公表することで、少年や少年の親族はもちろんその関係者や少年の住んでいるないしは住んでいた地域の住民に対する被害や迷惑のリスクを考慮すれば、実名を出すことによる被害は大きいことも考慮するべきであろる。(※5)

 しかし、メディアの側には事件を起こした加害者は実名を公表するのが当然であり、少年犯罪、精神障がい者が事件に関係している場合にのみ例外的に(消極的に)匿名にするというスタンスの者が強い。実名報道の必要性を強調する理由としては、実名報道をなくすと警察が犯人を実名で公表しなくなるためにメディアが警察の動向を監視できなくなることや、読者の知る権利を奪うものであるといったことなどが根拠となっている。

 私はこれらの主張が果たして正当性があるものかという観点から、匿名報道を主張する立場と実名報道を主張する立場と両方の立場を踏まえて、議論をしていきたいと考えており、note記事でこの問題をテーマに据えるつもりである。読者の皆さまにおかれても、コメント欄において賛成、反対それぞれのお立場からご意見を表明いただければ幸いである。いつものことではあるが、今回の問題はとりわけ皆さんと一緒に考えていきたいと考え、重ねて強調させていただいたことをお断りしたい。(次週は別のテーマを扱う予定です) 

皆が集まっているイラスト1

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

(※1) ここでいう「改正」とは法律を改めることを意味するものであり、それ自体は正しいとか間違っているといった価値判断を含むものではない。ただ、法律用語に詳しくない人も多く、誤解を与える可能性があるため中立的な意味合いから筆者は改正の言葉に鍵括弧を使わせていただくこととした。

(※2)

(※3)

 なお、文献として野口善國著「それでも少年を罰しますか」(共同通信社)があり、同著では、神戸連続児童殺傷事件、野口が面倒を見てきた非行少年への対応、少年法のあり方について見解が記されている。

(※4) 野口は司法試験を受ける前に東京拘置所の刑務官を務めており、刑務官として死刑囚執行に立ち会っている。野口は死刑執行の立ち合いについて、周りから顔が青ざめていたと指摘されたことや、人を殺しているという感覚があったと語っている。(2022年3月15日 毎日新聞夕刊)

(※5) なお、匿名にする趣旨はプライバシーの侵害を防ぐという意味であり、匿名主義においては氏名を匿名にするのみならず、本人を特定する可能性のある情報を公表しないということも当然に含まれる。

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