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日朝首脳会談20年 ②-拉致事件は在日朝鮮人にどのような影響を与えたのか-

 日朝首脳会談から20年を迎えるにあたって、日朝関係を巡る問題について考察をしています。前回は進歩的知識人の拉致事件への批判的考察をご紹介しました。(※1)2回目の今回及び3回目の次回で、拉致事件が在日社会にどのような影響を与えたのかについてご紹介したいと思います。

はじめに(おことわり)(※2)

 在日朝鮮人という表現ですが、近年では在日コリアンと表現されることが多いです。これは朝鮮半島が南北に分断されているため、北の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を朝鮮、南の大韓民国(韓国)を韓国とみなすことが多く、朝鮮人という表現が南を無視しているという意見があることから、どちらを意味するものでもない中立的な表現として在日コリアンという表現が使われる傾向にあります。似たようなケースではNHKの「ハングル語講座」という表記がこれに当たります(※3)。

 私の立場としては、一般的に朝鮮という地域、社会、歴史、文化という意味合いから朝鮮という言葉を使うこととします。在日朝鮮人のスタンスは多様です。朝鮮学校に通う人たちのみならず、日本と同じ学校に通う人たちもいます。差別、偏見があるために通名と呼ばれる日本名を使う人もいますし、差別、偏見があっても本来の名前で使うべきという考えから通名を使わない人もいます。また、自身の出自を明らかにした上で日本名を名乗る人もいます。そうした多様性を踏まえたことが必要だと考えます。

 また、日本への帰化をするしないということがしばしば問題になります。日本が民族アイデンティティ、民族教育を認めようとしないから帰化が続出するとして批判的な意見がなされることもあります。私は日本社会にあるマイノリティに対して不寛容であることの問題点から、それが結果として在日朝鮮人が帰化に追い込まれているという側面があり、マイノリティへの不寛容という問題点を解決することは日本社会の課題であると考えています。と同時に、それでも帰化については最終的には個々人が判断するべきとも考えています。民族アイデンティティの強調によって、個々人の選択を抑制することもあってはならないとの考えからです。

 以上、大切なことなので書かせていただきました。私自身の浅学なところから勉強不足や在日朝鮮人を理解していないとのご批判を受けると思います。その意味では理解の一歩には本、文献を読むことやさまざまな在日朝鮮人との交流が必須であると考えます。ここでは簡単な書き方になりましたが、在日朝鮮人についてきちんと語るとしたらnote記事を何本も書かないといけないという意味では、これは一部でしかありません。以上をご理解の上で本文をお読みいただきたいと存じます。

拉致事件に振り回される在日朝鮮人

 北朝鮮による日本人拉致事件に一番振り回されたのは日本と朝鮮半島を巡る問題によって影響を受けるだろう在日朝鮮人、とりわけ朝鮮学校関係者及び朝鮮学校によってなされるいわゆる民族教育を通して民族のアイデンティティを確立する人たちであろう。冒頭でご紹介した「緊急集会」における在日朝鮮人の発言を紹介したい。

 「衝撃だった。ヤバイことになったと思い、今までとは違う恐怖を味わった。石原発言以降いつまで日本に生きていけるだろうと思っているが、あらためて自分の居場所はどこなのか、人間関係はどうなるのか、と考えた」
 「九月一七日を迎えて両国関係はこれ以上悪化することはないと楽観していたが、拉致事件は衝撃。自分たちの足場が崩れてゆく感じがする。いま私が加害者の側に立って苦しんでいるのと同様に、日本人は自分の足元が揺らぐほど過去の加害行為を思ったことがあるのかを同時に問いかけたい」
 「立場上、拉致はないと言ってきた。日本人に謝罪します」(※4)

 これについて、太田は自らが関係のない拉致事件について故国、民族を代表するかのような謝罪は不要であり、民族主義的なねじれを引き起こすとして、必要なのは国家の指導者である金日成=金正日体制への徹底的な批判ではないかとの見解を示している(※5)。ただ、朝鮮学校関係者からは朝鮮民族を代表することの意義を強調する傾向が見られることも事実である。朝鮮大学校体育会サッカー部部員康尚揮(カンサンフィ)は次のように語る。

 ウリハッキョ(注.朝鮮学校)でサッカーをするということは、常にたくさんの同胞(注.在日朝鮮人)たちの期待を背負っているということ
 「なんの為に」「誰の為に」サッカーをするのか
 ここが他の日本学校とは明らかに違うところと思う
 自分はいま朝鮮大(注.朝鮮大学校)サッカー部でサッカーをしている
 朝大でサッカーしてる自分を神戸のたくさんの同胞たちはいつも応援して期待してくれている。
 僕はこれからも神戸の同胞たちのたくさんの期待や応援を背負って、今まで自分に関わってくれた人たちに少しでも恩返しする為に必死にがんばります(※6)

 康にとってサッカーで活躍をすることの意味は自身の能力を高めるためだけにあるのではなく、在日朝鮮人のためにあると考えている要素が強いことをうかがわせる。そこには民族の尊厳を守るという観点から、康自身が在日朝鮮人の一人としてアイデンティティを確立し、在日朝鮮人社会に貢献することが一在日朝鮮人の務めであるという意志が強く感じられる。ただし前述したように、在日朝鮮人は実際には個々人で価値観が異なることも、私たち日本人としては踏まえる必要があろう。繰り返しではあるが、私たちの一方的な在日朝鮮人観が、在日朝鮮人の多様性、一人の人間としての価値観の違いというものを捨象し、それが差別、偏見や差別、偏見までいかないまでも誤解につながる危険性があるからだ。

 私は、家永三郎の戦争責任におけるnote記事でも述べたが(※7)、国が犯した過ちということについてその過ちを見過ごしたこと、許してしまったことについて個々人に責任がまったくないとは考えない。(※4)に引用した在日朝鮮人の2番目の意見はその意味においては私と意見が共通する。ただし、国や民族の代表者であるかのような謝罪を行うことは不要という太田の意見については私も同様である。

 と、同時に在日朝鮮人として謝罪した言動の背景には、日本人が在日朝鮮人をひとくくりにして差別、偏見をもって接するために、それに影響する形で在日朝鮮人を代表して謝罪するという発想に行きついたという側面もあるのではないだろうか。もし、私たちの側に在日朝鮮人に対する民族差別、偏見というステレオタイプ化した見方をするのではなく、一人ひとりの個性の違い、個人の人格を尊重する形で各人に接するという態度であれば、北朝鮮による拉致事件について謝罪ではなく、太田が言うように北朝鮮の拉致行為や体制の問題点を強く指摘する発言が出た可能性もあったのではないだろうか。その意味では私たちの側に在日朝鮮人への差別、偏見の解消のために何をなすべきかという課題が表れていると言えよう。

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 いかがだったでしょうか。次回のnote記事は宋安鍾氏の「もうひとつの故郷へ」(現代思想 2007年2月号)から一在日朝鮮人の政治学者が北朝鮮をどのように見てきたのか、そして在日朝鮮人社会が政治によって振り回されてきたことについてを掲載予定です。これについても皆さんと一緒に考えて参りたいと思います。

皆が集まっているイラスト2


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(※1)

(※2) 前回記事で「「「拉致」異論 日朝関係をどう考えるか」の緊急集会での在日朝鮮人からの拉致事件に対するご意見をご紹介したい」と記しましたが、在日朝鮮人の多様性や個々人考え方が違うことを踏まえた上で、拉致事件によって在日社会がどのような影響を受けたのかという視点が必要性であることから、在日朝鮮人について今回記事の「はじめに(おことわり)」を記すことにしました。

(※3) 

 このほかに、朝鮮という呼称が日本では蔑称的意味合いがあるとして反対することも同論文では指摘している。

(※4)  太田「「拉致」異論 日朝関係をどう考えるか」 P156~P157
なお、石原発言は東京都知事だった石原慎太郎のいわゆる「三国人発言」を指しているものと思われる。

(※5)太田 「前掲」  P157

(※6)

(※7)





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