スティーヴンスン『南海千一夜物語』と岩波文庫のひどい訳

 スティーヴンスンといえば中島敦が憧れた作家だ。中島敦はスティーヴンスンを主人公にした「光と風と夢」を書き、イギリスからアメリカを経てサモアへ渡ったスティーヴンスンのように、日本の委任統治領だった南洋群島に職を求めた。サモアで小説を書き、死んだスティーブンスンのように、中島敦もパラオやサイパンで小説を書いた。彼は赴任先のヤルートから妻に宛てた手紙で、「僕は今迄の島でヤルートが一番好きだ。一番開けていないで、スティヴンスンの南洋に近いからだ」と書いている。

『南海千一夜物語』(原題:The Island Nights' Entertainments)はいずれもサモアやハワイの島々を舞台にした「ファレサアの浜」「瓶の妖鬼」「声のする島」の三編を収録した短編集。「ファレサアの浜」は、簡単に言うと二人の白人が先住民の女(≒島での成功)をめぐって対決する話だ。物語は南太平洋のとある島、ファレサアという集落で語り手がかつて経験した出来事として回想される。

 ある島に白人貿易商ウィルトシャーがやってくる。ウィルトシャーは同じく貿易商のケイスの斡旋で先住民のウマを現地妻に迎える。ところがウィルトシャーが開いた店には人が寄り付かない。どうやらウマは先住民の間でタブー(交際禁止)にされていること、ケイスはそれを知りながら二人を騙してウィルトシャーとウマを結婚させたことがわかる。さらに、ウィルトシャーの先任者もケイスによって殺害されたらしい。ケイスはジャングルの中にティアポロ(魔物)の神殿をつくり、自らをティアポロの化身と人々に信じさせていた。ケイスは先住民の信仰を利用して、島の社会を牛耳り、商売の邪魔になる白人を排除していた。ウィルトシャーはケイスの神殿をダイナマイトで爆破し、ウマの助けを得てケイスを打ち倒す。ケイスは死に、ウマとの間に子供を得たウィルトシャーは本国に帰らず、今でも南洋で暮らしている。娘をどうにかして白人と結婚させたいということだけを悩みながら――。

 THE・オリエンタリズムなストーリー。しかし、このウィルトシャーの語りはどうも信用できない。なぜならケイスが英語と現地語を操り、白人と先住民の間を巧みに立ち回るのに対して、ウィルトシャーはほとんど現地語を解せないからだ。例えば、ウィルトシャーがケイスを連れて、集落の酋長たちにタブーを解除するよう要請に行く場面がある。言葉が話せないウィルトシャーは、通訳を買って出たケイスと酋長たちの交渉を観察していることしかできない。言語の通じない島での体験は、ウィルトシャーにとって内面化できない他者との遭遇であり、不可解な出来事の連続だった。そんなウィルトシャーが唯一関係を築けたのがウマであり、そこで使われたのは英語と現地語の混成語(Beach de Mar)だった。プライベートな混成語の空間を手に入れたウィルトシャーは、二つの言語と文化の外側を行き来するだけのケイスに勝利することができた。「ファレサアの浜」は軽妙なロマンスでありながら、植民地における異文化混交を言語体験を通じて描いたリアリスティックな作品だった(中和彩子「『ファレサアの浜』の言語体験」)。

 ……ということを、現在入手できる岩波文庫の中村徳三郎訳(1950年)を読んでもさっぱり分からなかった。なぜならこの訳ではBeach de Marは「南海訛りの英語」とされ、他のセリフとほとんど同じ調子で訳されているから。Ioe(Yes)のように、わざわざ著者がつけた註までなかったことにされている。この訳で読んでいては、いけすかない白人の武勇伝としか受け取ることができなかった。中和さんの紀要論文をPDFでアップしていてくれた法政大学教養部に感謝。いい時代になりました。

 中島敦の小説「マリヤン」で、聡明なマリヤンが読んでいる本の中に、岩波文庫の『ロティの結婚』があった。

 其の「ロティの結婚」に就いては、マリヤンは不満の意を洩らしていた。現実の南洋は決してこんなものではないという不満である。「昔の、それもポリネシヤのことだから、よく分からないけれども、それでも、まさか、こんなことは無いでしょう」という。

 ポリネシアを舞台に、フランス語で書かれた小説を、日本語で、ミクロネシアの人間が読む。日本人の書く小説の中で。

 越境を繰り返す中で、文学が再現する「リアリスティック」な言語体験など、軽々と異質なものへ変質していってしまう。

 小説に限らず、再版された岩波文庫の中にはかなりの割り合いでひどい訳が含まれているが、日本語圏に輸出された文化装置としての岩波文庫の役割を考えるとき、悪訳の影響も無視できない……的な研究を誰かにしてほしい。

 PDFでアップされたら読みますので。



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