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「大人の思春期」を綴る

noteを書こうと思い立った理由は、自分自身の経験が他の誰かの役に立つかもしれない、ということと、自分でも驚くくらいの変化が目の前で次々に起きた事実を、自分の言葉で残しておきたいと思ったからだ。

以前の自分は、重い鉛を身にまとったような状態。年々鉛が重くなるが、仕事も家庭のタスクも容赦なく降ってくる。アレコレと積み上がり、物忘れもひどい。認知症を疑いたくなるような自分、娘との関係も悪化、自己肯定感も最低レベルになってしまった時、家族に迷惑をかける未来しか想像できなくなり、藁をもすがる思いで行動を起こしたことが、今の自分を導いた。

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あらすじ

この体験記は、思春期の子を持つワーママが大企業の管理職を担いながら、子育て、家庭運営をした末、自分と家族に起こった出来事を記録するものだ。子育ての後期に入り、思春期真っ只中の娘と自分の(大人の)思春期とが重なり、原因の根本を作る自分自身と向き合いながら、何よりも大切な自分と家族を取り戻す過程の記録となる。それは「トランスフォーム transform」という言葉がピッタリの脱皮体験そのものだった。

きっかけとなったのは、家庭内のお片づけプロジェクトに覚悟を決めて参加したこと。家庭内のモノの整理を通して、自分自身のこれまでの生き方にとことん向き合い、丁寧に仕分けしながら要らないものを手放していく作業が、苦しくも、少しづつ視界がクリアになっていき、本来の自分を取り戻すプロセスそのものとなった。

誰かが同じ悩みに直面しているなら、何かの助けにならないかと思い書き記すこととする。

これまでの私

<会社とともに生きていた私、働きがいと幸せ>

今年で20年目になる現在務める会社では、山谷あれど、会社員生活を彩る達成感や喜びに満ちた瞬間が幾度とあった。

入社2年目で結婚し、出産年齢が早かったことで、当時100人規模の組織では育児社員のトップバッターだった。”定時で帰るワケあり社員”、当時の自分の意識。それでも職場はフェアで、自分の持てる力を発揮しやすい環境だった。

2子目で切迫早産し、トライアル中の在宅勤務制度に手を挙げた。育児事情のある社員でも存分に働ける方法を職場と相談しながら模索していた。子の怪我・疾病など、声をあげれば話を親身に聞いてくれ、感謝の気持ちと比例して仕事にも全力で取り組んだ。

男性が圧倒的に多い大企業で、女性として働くこと、母として働くことが、いつしか自分のテーマになり、多様な働き手を応援する会社、子育てをしながら働くからこそ生み出せる価値があると気づいてからは「事情」を味方につけて、働きがい、幸福感に直接繋がっていた。今でこそ人事が大切としているエンゲーメントスコアは当時が一番高かったのではないかと思う。

途中、息子の大病を経験し、働く意味を見失いかけたこともあった。修羅場のない子育てなどない。育児や介護、自分特有の事情があってもその人の持つ本来の力をその人のタイミングで発揮できる、そんな働き方ができる制度や職場の空気を大企業の人事と一緒に作り、日本社会に発信している、そんな意識だった。

<管理職への扉>

そんな私にも、管理職に声がかかるタイミングがきた。息子小6、娘小2の時だった。私の思いや姿に共感してくれた上司の応援は心強かったが、それでも、仕事と家庭運営の両立の難易度が増すことは容易に想像でき、心が決まらない。

半ば使命感のような、自分なりの大義との間で散々悩んだ末、夫・子ども達から背中を押され覚悟を決めた。管理職研修の山場は夏休み前後。息子の受験の年と重なり、受験の天王山と呼ばれる夏休みに一緒に頑張ることになった。保護者としての役割も当然あり、志望校の方向性を定める、食事や睡眠など健康管理も手を抜けない。ところが、日光への修学旅行前に熱を出し、宿泊所へ車送迎したことは、今となっては良い思い出だが、当時は自分を相当に責めた。

管理職初年度は、右も左も分からないまま、前に進むしかなく無我夢中。想像していた以上に、時間が足りない。7時前に登校する息子のお弁当、毎日の食事、洗濯、学校関係のお便りの管理や習い事、塾の送迎。いつしかランチの時間や睡眠を削ることでしか、時間の調整ができなくなっていた。

もともと、料理以外の家事は好きでも得意でもないため、掃除や片付けは後回し。アウトソースで割り切り、週1家政婦さんに頼る生活が続いた。丁寧ではないけど、うまく家事を回しているつもりだった。

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