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東大日本史過去問解答例(2015~2017)

第二弾です。そもそもの難易度が高い問題(どう考えても試験場で十全な答案が作れないだろうと思うもの)以外は、「書けそうかつ、十全な」答案を目指して作成しました。表現があまりかっこよくなくとも、日本語として不自然でなく、書くべき内容が反映されていれば満点は来ると考えるためです。

東大日本史の解答は割れるものです。他の解答例も参照してみてください。塚原先生「東大の日本史27ヵ年」、野島先生「東大日本史過去問題集」(note)がおすすめです。

2017年度

第一問

A東アジア情勢が緊迫する中、蝦夷を夷狄とみなし支配することで、律令法を導入した帝国としての体裁を整え威信を示そうとした。(60字)
B国土は拡張し、東北地方との海上交易は活発になったが、軍事動員、移住政策により全国の民衆と国家財政への負担は限界に達し、公地公民に基づく律令支配は揺らいだ。蝦夷征討に関わる官職は軍事的権威となり、平安時代の東国武士団成長に繋がった。(116字)

◯書きにくい問題です。特にAは帝国構造まで発想を飛ばせたか、というのと、資料文⑴「東アジアの国際関係の変動の中で」、問題文「律令国家にとってどのような意味を持ったか」への反応が大事でした。
独自の法を制定していること、夷狄を支配していることが、被冊封国と小中華帝国の違いとして挙げられます。

第二問

A承久の乱に勝利した幕府は畿内・西国に新補地頭を任じたが、荘園領主との紛争が増加したため西国の裁判拠点が必要だった。(58字)
B当時、3回目の蒙古襲来に備え、異国警固番役は継続していた。一方で恩賞を求める御家人の声も高まっていたため、彼らが鎌倉に出訴して九州の防備が手薄になることを回避しようとした。(87字)

◯承久の乱、蒙古襲来という、鎌倉時代の社会における二大画期についての問題です。多分2019年第二問を作った先生と同じです。
Aはあくまで「経緯」ですから、「京都での裁判を求める声が多かった」「京都での裁判の需要が高まった」みたいなことを書いても加点はされないでしょう。「背景」も同じようなものです。あくまで「背景」に徹することが大事。
Bも同様で、「鎮西探題に確定判決権を与えた」とすると、(B解答)→(資料文⑶)という「理由→事実」という関係が成り立たなくなります。踏み込みたい気持ちを抑えて、冷静に一歩引くのが大事。

第三問

A基本的に前当主の息子世代で、最も年長の成人男性が相続した。該当者がいない場合は、養子や、中継ぎとして女性が相続した。(59字)
B百姓の家は男性が継ぐのが原則の男性中心社会であり、家での女性は夫などの男性に準ずる存在として扱われた。女性が当主となって公的な場に出た際は、体裁を整えるため男性名で記録された。(89字)

◯Bは書きにくいです。家↔︎村の構成で書けばいいでしょう。

第四問

A第二次西園寺内閣は上原陸相の辞職により解散したが、民衆の抗議活動により相次いで内閣が倒れると元老は大隈を首相に指名、桂が組織した立憲同志会が与党となり後の二大政党の端緒となった。(90字)
Bワシントン体制下の当時の国際社会では協調と軍縮が重視された上、浜口内閣は金解禁に伴い財政を緊縮していた。立憲政友会や軍部はこの方針を、天皇大権たる統帥権の干犯であると批判した。(89字)

◯Aは、第2次西園寺内閣〜第2次大隈内閣の間、2個師団増設問題と絡んで政党政治にどのような変化があったか、ということです。
Bは、リード文「政治上の大きな争点となった」に絡めたいので、対立の相手となった立憲政友会・軍部というワードは盛り込みたいです。

2016年度

第一問

A郡司は主に旧国造の自立した地方豪族であり、改新政府は彼らによる現地支配の形を変えず利用する形で、評の役人に任じていた。(60字)
B8世紀初頭、郡司は天皇と国司に仕える存在であった一方、国司は郡司の伝統的支配力に依存した。しかし次第に郡司の権限は国司に吸収されて国司が国内の実権を掌握し、9世紀には郡司の任命権を国司が掌握するようになって郡司は国司に従属する存在となった。(120字)

◯Aは、これも「背景」であることに注意。
Bも同様で、あくまで「関係」であることに注意。

第二問

惣村は、他の惣村と共同で用水を利用していた。荘内用水の整備は百姓が自ら行ったが、その費用は荘園領主に要求することがあった。共同用水の利用に際して他の惣村と対立した際は裁判に解決を求めたが、合戦に発展することもあった。その際は近隣惣村に協力を求めたり、第三者の立場から仲裁を求めて用水利用を確保した。(149字)

◯荘内の話(資料文⑵)も入っているためいささかまとめにくい問題です。読み取れたとは思いますが、いかにまとめるかが問われました。

第三問

A豊臣恩顧の西国外様大名が大坂城の豊臣秀頼を擁立して江戸の幕府に反抗するのを防ぐため、長距離移動に用いる軍備を削減した。(60字)
B大船禁止令は海外渡航を禁止する意図までは含んでいなかったが、家光の代に武家諸法度に加えられたことで当時の海外渡航禁令の一環だと解釈され、大名の海外渡航と密貿易防止策と理解された。(90字)

◯Bは資料文にあることを書けばよい問題です。

第四問

A2度の企業勃興により紡績業の規模が拡大し、工女の需要が高まったことで起きた。女性労働者の増加は女性の地位を向上させた。(59字)
B1930年代の実質賃金下降は、昭和恐慌以降の産業合理化、戦時経済統制に伴う賃金引き下げと、軍事費・農村救済費の調達のための財政膨張に伴うインフレによる。1960年代の急上昇は、技術革新による労働生産性の向上と労働者不足、春闘方式の労働運動による。(117字)

◯Aは、グラフと『日本之下層社会』を組み合わせて解答に至ります。
Bは、「実質賃金」であることに注意。

2015年度

第一問

Aアニミズムに基づく神々への信仰は他宗教との融和が可能であり、仏教も先祖祭祀や呪術といった役割を担うことができた。(57字)
B奈良時代は神前読経・神宮寺の建立といった神仏習合が行われ、古来からの自然崇拝の場所も仏教の影響を受け社殿が建てられた。平安時代前期には仏教の偶像崇拝の影響で神の姿が描かれるようになり、中期には神は本来仏であるとする本地垂迹説が生まれた。(119字)

◯Aは簡単なようでまとめ方が難しい。この解答では神々への信仰側の視点と、仏教側の視点の両方からの記述を心がけた。Bは、「神々への信仰に対する、仏教の影響」に徹することが大事。

第二問

A本領が安堵されたのに加え、奥州藤原氏滅亡に伴い東北の土地が、承久の乱勝利に伴い上皇方の畿内・西国の土地が与えられた。(59字)
B惣領は庶子を各地に派遣して経営させ、各地の経営者は金融業者を代官として雇った。庶子の派遣は庶子の自立意識を強め、惣領制に基づく武士の一門は解体へと向かった。貨幣経済に巻き込まれ窮乏した御家人は、代官の金融業者に所領を売却し所領を失った。(119字)

第三問

A東日本より西日本の方が綿や油菜の栽培に適しており、繰綿・木綿の加工も盛んで、良質な油、醤油、酒の生産も優れていた。整備された海運ルートと問屋は、円滑な大量輸送と流通を可能にした。(90字)
B炭など4品目は、江戸近辺での自給が可能であった。米は、流通に大坂を介さない東日本の諸藩による年貢米で賄うことができた。(60字)

◯Aは、生産面では綿と油菜を同じ括りで扱うことができますが、品質面では、油に関しては西日本>東日本が明示されている一方、綿は「加工が盛んである」くらいしか読み取ることができません。そのためこのような答案になっています。
醤油と酒については資料文から読み取れないので、知識か(酒はともかく、醤油は野田、銚子が思い浮かぶので困った人もいると思いますが)、文脈に合わせた推測でなんとかしましょう。別の枠で説明する字数的余裕はないことも少しヒントになったかもしれません。
Bも、「炭など4品目」を一つ一つ説明する余裕はありません。資料文⑷の魚油の説明から、自給可能であった旨を読み取りましょう。

第四問

A制限選挙で、1920年代前半は非政党内閣が続いていたが、男性普通選挙権を求める民衆運動が活発化し、男性普通選挙が始まった。これは民衆の政治参加を可能にし、憲政の常道の端緒となった。(89字)
Bロシア革命を契機に、労働者階級の運動が活発化すると共に社会主義者も活動を再開し、コミンテルンの支部として日本共産党を結成した。政府は治安維持法を制定しこれらの活動の拡大を防いだ。(90字)

◯前提としている状況は同じですから、Aは「政治の仕組みへの影響」、Bは「国際的な性格をもった社会運動の勃発」という、AとBの棲み分けを明確にしてから臨みましょう。第二次護憲運動は、第一次とは異なり政界内だけでの動きなので、民衆は関係ありません。
Aは、対象とされている時期が「第一次世界大戦中〜大正時代の終わり」=(1920年代前半)であることに注意。

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