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【いい道 静岡県掛川市 謎の巨大水路隧道?編】について補足・考察・情報募集

※当記事は、上の動画【いい道 静岡県掛川市 謎の巨大水路隧道?編】で取り上げた水路隧道について、動画内で触れられなかった情報や、のちに判明した情報を提示しつつ、新情報の募集を行うものです。当地について詳しい方も、そうでない方も、コメントよろしくね!


1.本物件の概要

 静岡県掛川市。この地の中心地からやや南にそれると、そこには茶畑の一帯が広がっている。遠州の南にデーンと腰を据える「小笠山」の麓。名産の「掛川茶」を生産する当県の、産業の要となる地域の一つだ。

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▲静岡県掛川市板沢(引用:グーグルマップ)。

 「板沢」は、小笠山の北東の麓に位置する、茶畑の一帯である。グーグルマップを確認すると、市街地から南東に抜ける、2本の太い道路が見える。動画にあった水路隧道(?)(以下、本物件)は、このうち西側、茶畑の中を突き抜ける路線の沿線に口を開けている。

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▲水路隧道(?)東側坑口。

 路線との詳しい位置関係は動画をご参照頂きたいが、とにかくダイナミックな景色だ。底面から天井までは、3mはあるものと思われる。水路隧道だとしたら、かなり大規模なもの。

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 内部の景色は、息をのむ美しさ。思わず見とれたが、同時にこの「穴」の出自が気になった。不可思議なことはいつくかあった。

 なお、予め宣言しておくと、私が感じた疑問への答は、まったくもって得られていないというのが現状。情報提供を……お願いします……。


2.疑問点その①:人工物?自然物?

 人の手によるものとも、自然のたまものとも取れる見た目をしている本物件。ノミの跡がびっしり残っているなどしてくれれば判別しやすかったのだが……。人工だとしたら、開通時はたぶんそういう見た目だったんだろうけど、おそらく風化で洞内壁面がことごとく均されてしまっている。本物件が貫いている地盤は脆い砂岩で構成されており、その脆弱さたるや、手を触れればぽろぽろと崩れ落ちてしまうほど。西側坑口と東側坑口で大きく形状が違うあたりから察するに、開通当初から自然の浸食によってかなり崩壊しているものと推察される。人工物だとしたらね……。

 こんなに大きな水路隧道が、自然にできるわけがない!という意見があるかもしれないが、実際には、無い事でもない。たとえば、高知には「伊尾木洞」という、自然の浸食のみで作られた、巨大な水路洞穴が存在する。

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▲「伊尾木洞(高知県)」。高知県東部の観光スポットだ。

【考察】

 見た目だけでは、わからないです……。見る人が見れば、人工か天然か、ハッキリと分かるのかもしれないが、私にはちょっと、判別できなかった。もっと勉強したいね……。


3.疑問点その②:なぜ、案内板などに記載されていないのか?

 本物件のすぐ近くに設置されていた看板を見て頂きたい。

どんどん?

 「現在地」の点とほぼ同じ位置に、本水路隧道(?)が口を開けているが、案内板には全く記載されていない。右の方に「ドンドン隧道」というのが記載されているが、こちらはれっきとした水路隧道である。記載する/しないの基準は何なのだろう。

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▲ドンドン隧道。画像だと解り辛いが、高さは1.8m程で本物件よりも小さい。

【考察】

 本物件が人工のもので、なおかつ、割と最近に出来たものなのではないのかと考える。本物件は、多少目につきづらい位置にあるとはいえ、その所在地自体は、市街地からも近く、幹線道路沿いで、茶業の方々が足しげく往来するような場所だ。これが自然の創作物なら、伊尾木洞ほどではないにせよ、もうちょっともてはやされるはずである。というか、人工物でも、もてはやされていい気がする。実際、「ドンドン隧道」は案内板に記載され、当地には説明の看板まである周到ぶりだ。

 看板曰く、ドンドン隧道の開通は、明治19年。明治隧道である。その歴史の重みから珍重されている部分もあるのだろう。それでは本物件はどうか。恐らくだが、もっと後、酔狂な隧道マニア以外はもてはやしづらい、微妙な年代の竣工なのではないだろうか。昭和中期とか、その辺?推測の域は出ないが……。

4.疑問点その③:人工物だとしたら、なぜ作った?

 本物件が、人工物だと仮定した場合の疑問だ。いかに遠州一帯の地質が隧道の掘削が容易な砂岩・粘土質だとはいえ、隧道の掘削は容易な事ではない。人も、時間も、金もいる。それは、程度の差は有れど、明治でも、昭和でも、そして現在でも変わらない。十分な動機と、実行力が必要だ。それらが、いったいどのようなものだったか。

【考察】

 茶畑の整備に伴い、河川流路の調整を行うために掘られた水路隧道ではないだろうか。あくまで憶測だが、論拠を二つ、以下に示す。

【論拠①:静岡県掛川市における、茶業の隆盛時期】

 本物件が、茶畑の脇を流れる小川に口を開けているのが気になった。もしかしたら、茶業に関連して掘削されたものではないか。そこで、掛川市における茶業の発展について、グーグルで検索をかけてみた。

 ヒットしたのがこちらのページだ。以下に一部を引用する。

(前略)昭和30年代に入ると、経済成長時代となり、専業農家は経営規模拡大指向に。昭和36年五明地区でブルドーザー開墾が行われ、これを機に各所で開墾が急速に行われるようになり、(後略)

 掛川市内で茶畑が大規模に開墾され始めたのが、昭和36年頃とのこと。本物件に隣接する茶畑が、本物件の誕生に関連性があると仮定すれば、この年代がクサい。

【論拠②:歴代地図の確認】

 論拠①を信じて、昭和36年前後の地形図を確認してみよう。

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 赤い矢印で示した場所が、現在、水路隧道(?)が存在する場所だ。ただ、昭和31年の地図のみ、完全な位置が分かりかねたので、おおよその位置を指している。

 見ての通り、昭和31年から昭和54年までの23年間で、現在の本物件脇を通る新道が開通している。周囲の地形も変わって見える。昭和54年以降、周辺には茶畑の地図記号が散りばめられている。一方、昭和31年は……ちょっと、参考にした画像の画質が悪く、微妙だ。茶畑にも、荒れ地にも見える。ともあれ、どちらにしろ、この間に一帯の茶畑が開墾、あるいは改修されたものと考える。

 更に興味深いのが、川の線形だ。

ズレ!

 昭和31年から同54年までに、川の位置がズレている。……ように見える。計測の誤差も考えらえるが、それにしても大きく違いすぎているように思う。もし、川の位置をずらしたとすれば、本物件は、昭和31年から同54年までに「掘られた」可能性が高い。更に、地形の変遷が、茶業の開墾によるものだと仮定すると、河川の形が変更されているのも、茶業の都合という線が強くなる。つまり、本物件も茶業の都合で掘られるに至った可能性が高い。

 考えるに、茶畑の用地を広く取るため、水路を地中に移動させたのではないだろうか。

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 現在の航空写真(グーグルマップ)に、昭和31年の地図を無理やり重ねると上の画像のようになる。青い線がかつての河川の位置、橙の線が航空写真の河川の位置、▲印は航空写真の本物件の位置である。前述の通り、古い地図と現在の航空写真との間には誤差があるかもしれないし、正確に重ねられていない可能性が高いことをご留意頂きたい。見ての通り、河川の位置が従来の場所に存在すると、茶畑のど真ん中を横切る形になってしまう。これだと、左岸と右岸を往来するのに一々手間だし、水害のリスクも増大する。南の山際に流路を追いやってしまうというのは、確かに長い目で見れば合理的な判断だったのではないだろうか?

 しかし、これだけだと「なぜ作った」の答にはなっていないのが悩ましいところだ。山際に河川の流路を追いやるのは分るが、わざわざ隧道の掘削を行うほどのことだったのか。確かに、その方が水路の面積分、茶畑の面積を大きく取れるわけだが……イマイチ、コストとリターンが釣り合っていないような。やたら口径がでかいのも気になる。しかも、昭和30年代以降にもなって、わざわざである。小笠山の山麓一帯には、多数の素掘り水路隧道が見られるが、それらは恐らく、「ドンドン隧道」のように、もっと古い時代の産物なのだ。それともこれが、隧道・多産地たる遠州の、隧道掘削に対する腰の軽さなのか……?

ちまい

 ▲同じく小笠山麓、「七曲り池」の近くにあった水路隧道。土被りは少ないが、左は茶畑で、やはり農耕地を多くとるため地中に埋没した水路と思われる。詳細な竣工年度は調べていないが、かなり古そう……。


5.結論

 茶業の関係で昭和31~54くらいに行われた開墾で掘られたものと仮説は立ててみましたが、じっさいのところ、なにもわかりません!

 当地で聞き込みなりなんなりしないと、確実な事はひとつも言えませんね……。情報を、募集しています……。



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