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アルマートイフェル【第四話】








「お前の方から連絡してくるなんて珍しいよな」

 花吉中央駅近くの狭い居酒屋の一席で、僕にとっては唯一の親友であり、幼馴染でもある烏山陽が、どこか緊張を滲ませた様子で焼酎の熱燗を右手であおった。普段飲みに行こうなんて絶対に言わない僕に突然呼び出され、なにかあるんじゃないかと戸惑い半分、警戒しているのだろう。

「ま、たまにはいいかなって思ってさ」

「なんだよそれ、気持ち悪いな」

 怪訝に眉を寄せる陽。心なしか彼のその顔には、いつもの彼らしくない心労が溜まっているように見えた。

「……どうした? なんか陽、疲れてる?」

 少し気になって訊ねると、陽はどこか物憂げに天井を見上げて、「いや……」と呟き、ゆっくりと瞬きをしたあと、「……いや、うん、実はな」と、正面の僕に向き直った。「別れちゃったんだよ、最近、俺。彼女と」

「は? 彼女?」

千歳ちとせっていう子でな、二年くらい前に合コンで知り合ったんだけど、近くの病院で看護師をしていて、いつも俺のことを気にかけてくれて、本当に良い子だったんだ」

「いつごろ別れちゃったの」

「一週間くらい前だったかな。一方的にフラれちまった」

「ふぅん……、まぁでも、陽ならまたすぐに作れるでしょ、彼女くらい」

 実際、陽は小さな頃ならモテモテで、小学生の頃の彼の下駄箱にはいつもラブレターが入っていたし、中学に上がると何人もの女子と付き合うようになったし、高校の頃なんかは、どこかの人妻と不倫している、なんて噂が立てられてしまうほどのモテっぷりだった。さらに言えば今の彼は九州最王手の新聞社に勤めるエリートなのだ。陽の方からわざわざアクションを起こさなくても、女性の方から近づいてくるに違いない。こんな言い方はあまり好きではないけど、まさに入れ食い状態というやつだ。

「いやぁ、どうだろうな。……って、悪い悪い。俺の話はどうだっていいんだよ。京太の方こそどうなんだ。そろそろ彼女はできたか?」

「……陽も分かってるでしょ。僕に彼女なんて、そんなのありえないよ」

 十二年前の一月七日以降、僕は恋というものをしたことがない。したくてもできないのか、したくないからしないのか、それさえも分からない。誰かを好きになるという思考回路がバツンと断線してしまったみたいに、たとえば目の前に絶世の美女が現れたとしても、どれだけ気の合う相手が現れたとしても、僕はもうなにも感じられなくなってしまっていた。いや───感じたいとさえ、思わないのだ。

「作れよ、彼女。楽しいぞ」

「無理無理。いいんだよ、諦めてるから」

「なんなら俺の友達の女の子、紹介してやろうか?」

「余計なお世話だって。僕にはもう、そういうのはマジで必要ないから。───そんなことより、月哉つきやは元気?」

 僕は片手でハエを払うように空気を掻いて、話を逸らした。月哉というのは、僕のもう一人の幼馴染で、陽の一つ歳下の弟のことだ。

「あー……、月哉。月哉なぁ。まぁ、元気だとは思うよ。最近は俺もなかなか実家には帰れてないから、あいつとも会えてないけど」

「まだ部屋の中から出てこないの?」

「さぁ、どうなんだろうな。ま、別に京太が気にする必要はねぇよ」

「でも、ほら、あの時は僕のせいで……、月哉にも辛い思いをさせてしまったから、一応、心配なんだよ」

「別にお前のせいじゃないだろ」陽が少々ムキになって言った。

「でも……」

「でもじゃないって。悪いのは全部、夕美を殺したあのホームレスだ。そうだろ?」

 なぜだろう、僕の目には、この時の陽の表情がやけに必死で、どこか狂気染みているように見えた気がした。ただの気のせいだろうか。久しぶりのお酒に飲まれて、酔いが回ったのかもしれない。

 十二年前の一月七日、鶴松町の公園で夕美を殺害した犯人は、すぐに捕まった。彼女を殺したのは、稲田真一いなだしんいちというホームレスの男だった。稲田が暮らしていた駅沿いのブルーシートの中から、夕美の財布と犯行に使われた包丁が見つかったことが逮捕の決め手ではあったのだけど、そもそも彼に疑いの目が向けられるようになったのは、とある男による犯人の目撃証言がキッカケだった。

 その、とある男とは誰か。

 そう、月哉だ。

 事件当夜、当時高校二年だった月哉は、通りかかった公園の中から若い女性の悲鳴と、そこから走り去っていく人影を目撃した。その人影の正体が誰であるかは、すぐに分かった。常に底の剥がれたボロボロのサンダルを履いているせいで、稲田が歩くたびにペッタン……、ペッタン……と餅をついたような音が鳴ることを、月哉は前々から───というより、鶴松町に住む者であれば全員、知っていたからだ。

 確かな物的証拠と有力な目撃証言によって、稲田には逮捕後、執行猶予なしの実刑判決が下された。無期懲役。それが客観的に見て妥当だったかどうかは僕には分からない。ただ、結局はその判決も半年と経たずに意味を失った。投獄からわずか数ヶ月後、元々患っていた肺炎の悪化が原因で稲田は獄中死してしまうのだ。残された人たちの心に暗然とした怒りと憎しみを残すだけ残して、自分だけが辛い現実から逃れるように……。

 一方で、月哉はその事件を境にめっきり部屋に引きこもるようになってしまった。正義のためとはいえ、人ひとりの運命がその言葉一つに委ねられたのだから、彼が心を病んでしまうのも無理はなかった。まして殺されたのは僕の───幼馴染の恋人なのだ。近くにいながら助けてやれなかった自責のようなものが、少なからずあったのかもしれない。

「もういいじゃねぇか。お前も、月哉も、あの時やれることをやっただけだろ? お前たちはなにも悪くないって」陽はそう言って強引に月哉の話を断ち切った。「それで?」と気を取り直すように、体を少し前傾させる。「俺を今日こうしてここに呼び出した理由はなんなんだよ。お前が俺を呼び出すなんてよっぽどだ。なにかあったのか?」

「あぁ、うん、えっとね」僕はビールを飲んで、言葉を一拍溜めた。「……まず今日、僕の家にあの火口さんが来たんだ。覚えてるよね? 高三の時のクラスメイトだった、火口恵理」

「ああ、火口な。覚えてるよ」

 熱燗を口に運ぶ手に隠れて、陽の表情がうまく見えない。

「今度の同窓会に僕が出席するかどうかを確認しにきたらしい。父さんの病院から戻ってきた僕を、わざわざ部屋の前で待ち伏せてたんだ」

 そう、わざわざだ。火口さんは僕と接触するために、電話やメールではなく、わざわざ僕の部屋までやってきたのだ。つまり彼女には僕と直接会って話をしなければならない、なにかしらの事情があったということだ。その事情というのが、ただの同窓会の出欠確認だけとは、やっぱり僕にはどうしても思えなかった。

「同窓会、かぁ……」

 陽が溜息と一緒に吐き出した焼酎の生ぬるい香りが、向かいに座る僕の鼻の粘膜にねっとりと触れた。頭がクラクラする。元々お酒は得意な方ではないけれど、中でも焼酎の熱燗はその匂いからして苦手だった。

「そういえば陽、参加するんでしょ、同窓会」

「んん、まぁな。京太はどうするんだ? 行くのか?」

「行くわけないでしょ」

「ま、だろうな。俺も、京太は行かない方がいいと思う」

 陽のその言い方が、少し気になった。

「僕は? どういう意味?」

「いや、別に深い意味はねぇよ。嫌々参加してつまらない思いをするくらいなら、いっそハナから参加しない方がマシだろ」

「まぁ……、それもそうだね」

「それで、あとは? まずってことは、他にも言いたいことがあるんだろ?」

「あぁ……、そう、これは火口さんが帰ったあとのことなんだけど、近所のゴミ集積所に人集りができていて、それで、なにがあったんだろうと思って近づいてみたら、そこで、その……死んでたんだ……」

「死んでた? なにが」

「その……、木崎くんが。木崎くんが、そこで殺されてたんだよ」

「木崎って……、木崎拓郎?」陽はピクンと眉を強張らせ、さらに訝るように目を細めた。「まさか、嘘だろ? なんであいつが」

「知らないよそんなの……」

「なんだよそれ……」

 動揺する陽の指先が忙しなくクネクネと動いていた。これは彼の昔からの癖で、なにかを真剣に考える時、どういうわけか頭の神経と指先の神経が連動してしまうらしい。

「あと、それから」と、僕はさらに続けた。ここで少しでも時間を置いてしまうと、沸き起こる逡巡に押し負けて口から言葉が出てこなくなってしまいそうだった。

「……なんだよ、まだあんのかよ」

「手紙……というか、便箋が」

「は?」

「便箋が届いたんだ。この前、僕のアパートに」





 一瞬、陽の動きがピタリと止まった。その大きな黒目だけをグラグラと揺らして、まるで陽の世界だけ時が止まったみたいに微動だにしなかった。

「……どうした?」

「……え? あ、あぁ……」陽は我に返ったように目を見開き、かと思えばすぐに伏し目になって、真っ青の顔を弱々と振った。「……いや、なんでもない。気にすんな。あー……、それでなんだっけ。手紙? 便箋? その内容は?」

「北野夕美を殺したのは……誰だ……っていう……」

 その短い文章を口にするだけで体の内側にゾワゾワとした不快感が走った。事件はとっくの昔に解決したはずじゃなかったのか。稲田真一を犯人だとする証拠も見つかり、実際に彼は逮捕され、実刑判決を受けたではないか。それなのに……、どうして今さらその事実を根底から覆すような便箋が送られてきたのか。

 すると、ほんの数秒、意味ありげに押し黙っていた陽が、再び指先をクネクネと動かしながら、椅子の背もたれに深く体を預けて言った。

「───それ、イタズラだよ、どうせ」

「イタズラ?」

「ほら、高三の時に俺らのクラスでやってたろ、木崎たちが。あの、なんとかっつー、くだらないゲーム」

「あぁ、あれ……」

 あれはたしか……高校三年の春から夏にかけてだっただろうか、僕たちのクラスで、「犯人当てゲーム」と呼ばれるゲームがにわかに流行りを見せた時期があった。流行りといっても、大半のクラスメイトは強制参加させられているだけで、実際にゲームを楽しんでいたのは木崎くんや火口さんといったクラスの中心人物たちだけだったけれど、むしろそれが余計に、僕たちの教室を取り巻く歪な構図を端的に表してもいた。

 例外的に陽だけはゲームが始まるとすぐに教室を出ていったけれど、それに追随できるクラスメイトは、僕も含めて、誰一人としていなかった。それほどまでに当時の教室では木崎くんたちのグループが絶対的な権力を誇っていたのだ。今にして思うとバカらしいけど、閉鎖的な環境下にある学生時代というのは往々にして、バカらしい常識が平然とまかり通る時代なのだ。

 さて、その犯人当てゲーム。ルールはごくごく単純にできていた。まず、木崎くんから指示を受けた彼の取り巻きが朝早くに登校し、木崎くんが選んだクラスメイトの一人の机の中に「犯人はお前だ」と書かれた紙を忍ばせる。

 やがて登校してきたそのクラスメイトは紙の存在に気付くわけだが、その人はその存在を誰にも他言してはならない決まりになっている。そして、その人以外のクラスメイトが探偵役となり、その日の会話や様子などをヒントにして、一日かけて犯人役を見つけ出す。

 答え合わせは、いつも帰りのホームルームが終わったあとに行われた。担任の武蔵野先生が教室を出ていき、各々が部活に行くなり帰路につくなりをするまでの短い時間。木崎くんが教壇に立ち、小さく切った紙切れを前から後ろに配っていく。クラスメイトたちはその紙切れに犯人だと思う人の名前を記入し、再び木崎くんのもとに戻す。集めた紙によって候補に上がった人の名前を黒板に書き出し、その下に得票数を正の字でカウントしていく。全員分の集計が終わると、いよいよ木崎くんの答え合わせが始まる。

「それじゃあ、犯人の人は手をあげて!」

 この決め台詞を口にする時の木崎くんの恍惚とした表情は、まさに心からゲームを楽しむ純粋な少年そのものだった。

 犯人役がおずおずと手をあげると、予想を当てたクラスメイトは喜び、外したクラスメイトは落胆する、ふり・・をした。彼らのその行動の根底にあるのは、ゲームを楽しむ姿を木崎くんたちに見せなければ、次の犯人に指名されてしまいかねないという恐怖だった。なぜなら木崎くんから犯人役に指名されるということは、同時に、これからお前をいじめの標的にするよ、という明確な宣告でもあったからだ。木崎くんたちにとって犯人当てゲームの本番は、むしろこの集計のあとにあるのだった。

 肝心のいじめの度合いは、ゲームの得票数によって変動した。票数が多ければいじめも過激になるし、逆に少なければ軽い嫌がらせ程度で終えることができた。

 当然、僕に犯人役が回ってくることもあったけれど、僕に対するいじめは、ほんの二、三日程度ですぐに終わった。それなりの票数を得てのいじめだったから、一体どうしてこんなに早く終わったのだろうと当時は不思議に思ったけれど、実はその裏で陽が木崎くんたちを説得してくれていたのだと、そして、そこには説得という言葉だけでは不十分な、つまり暴力的なやり取りがあったのだと、かなり後になって人伝てに知った。知らず知らずのうちに僕は陽に救われていたのだ。

 とにかく、それが高校三年の時にクラスで流行った犯人当てゲームの全貌。たしかにそう考えてみると、今回、僕のもとに送られてきた便箋の内容も、当時、教室の机の中に入れられていた紙の文言にそっくりではある。だけど───。

「でも、そんな何年も前のゲームを、誰が?」

 僕が怪訝に首を傾げると、陽はやたら断定口調で言った。

「そりゃあ、木崎と火口だろ」

「どうしてまた」

「ほら、同窓会。同窓会でまたあのゲームをしようと企んだんだよ。馬鹿の考えることは分からないけど、そう考えると、火口がお前の部屋の前に現れたのにも納得がいくだろ。昔の犯人当てゲームと同じような内容の手紙を送りつけられたお前のビビった反応を見るために、火口はお前の前に現れたんだ」

 陽の推理は、たしかに辻褄は合っていた。事実として、木崎くんと火口さんが今回の同窓会の幹事なのだから、彼らが当時クラスで流行ったゲームを久しぶりにまたやろうと計画したとしても不思議ではない。

 だけど、僕はどうにも釈然としなかった。ゲームがどうこうというより、目の前に座る陽のその態度に、強烈な違和感を覚えたのだ。木崎くんの死を聞いた時も、手紙という言葉を聞いた時も、陽は目に見えて動揺していた。犬猿の仲だったとはいえ、木崎くんは元クラスメイトでもあるから、彼の死に関してはその反応にも理解はできるけれど、ただ、手紙というありふれた言葉を聞いただけであれだけ露骨に動揺するのは、どう考えたって普通じゃない。さらに彼はしばらく黙り込んだ挙句に、なにかをごまかすように、その手紙は木崎くんたちによるただのイタズラだと断定した。はたから見れば、それは頭の切れる男の至って自然な推理のように思えるだろうけど、人生の大半を一緒に過ごしてきた僕に言わせれば、今日の陽の態度は一貫して不自然だった。

「じゃあ、僕は同窓会の余興のダシに使われたってこと?」

「まぁ、そうなるな」

「それなのに、その余興の前に、木崎くん自身が殺された」

「そういうことだ」

「それじゃあ……───木崎くんを殺したのは誰?」





 結局、そのあと陽がトイレに立ったことで、木崎くんの話も便箋の話も有耶無耶のまま中途半端に終わってしまった。

「なんにせよ、手紙……あぁ、いや、その便箋はただのイタズラだし、木崎が死んだことも、まぁ死んだことは残念だけど、だからといって俺たちになにか影響があるわけじゃない。便箋も、木崎も、俺や京太の人生にはまったく関係のない出来事なんだ」

 席を離れる際、陽は念を押すようにそう言った。実際、その通りではあるなと思った。あの便箋はただのイタズラ。友達でもなんでもない木崎くんが死んだところで、僕の人生に影響があるわけでもない。たしかに陽の言う通りだ。木崎くんは誰かに殺されたけど、僕たちとは関係ない。一週間前に届いたあの便箋も、突然現れた火口さんも、木崎くんの死となにかしらの繋がりはあるのかもしれないけれど、とにかく僕たちには関係ない。そう、僕たちには一切、関係がないのだ。

 しばらくしてトイレから戻ってきた陽の顎に、一滴のしずくが滴っていた。顔でも洗ってきたのだろうか。そのしずくを拭おうとして、彼が左手を顔の前に持ち上げたところで、僕は初めて、その左手の甲に包帯が巻かれていることに気が付いた。

「あれ、どうしたの、その左手」

 僕が訊ねると、陽は慌てて左手を右手で隠し、ぎこちない苦笑を浮かべた。

「あぁ……、これな、これは、その、ほら、あれだよ。グレムゴブリ。グレムゴブリに噛まれたんだ」

「はは、グレムゴブリって、あのグレムゴブリ?」

 思わず吹き出して笑ってしまう。向かいで陽が真剣な目をして、「うんうん、あのグレムゴブリ」と頷いているから、余計に笑えた。

「陽さ、この歳になってグレムゴブリは、さすがにないよ」

「いやいや、グレムゴブリに歳もクソもねぇだろ」

「いやぁ、でも、さすがにグレムゴブリは……───」

 僕は言いかけ、ハッと声を詰まらせた。久しぶりに聞く懐かしい名前に耳と脳が刺激され、長らく眠っていた高校時代の記憶が目を覚ましたのだ。グレムゴブリ。それは地球に蔓延る悪の権化。おそらくはグレムリンとゴブリンの名前を混ぜ合わせただけの、陽の頭の中だけに生息する架空の生き物───。





 夏のとある日、陽が顔中に怪我を作って登校してきた日があった。僕たちがまだ高校二年の時だったはずだ。まぶたの上は焼いた餅みたいに腫れ上がり、口元の切り傷は見ているこっちが顔を歪めてしまうほどに痛々しかった。

「なにがあったの?」

 僕が何度そう訊ねても、陽はヘラヘラと笑って、

「グレムゴブリにやられた」

 と繰り返すばかりだった。後日、これも人伝てに聞いた話ではあるけれど、その怪我には案の定、木崎くんが関係していたようだった。同じサッカー部の仲間でありながら、バチバチに対立し合う陽に一泡吹かせてやろうと、木崎くんが中学時代の先輩、それもちょっとガラの悪いタイプの先輩に頼み込み、奇襲を企てたのだ。相手は大学生で、体格も良く、しかも複数人いたらしい。

見るからに危なそうな相手に絡まれたのだから一目散に逃げればいいものを、陽は売り言葉に買い言葉でそれに応戦した。昔から陽は負けず嫌いで、とにかく血の気が多かったのだ。

 ともあれ、陽はなにか本音を隠そうとする時、いつも決まってグレムゴブリの名前を出した。怪我をした時はグレムゴブリに噛まれた。寝坊した時はグレムゴブリに体を押さえつけられて起きられなかった、などなど。

 グレムゴブリというのは、運動や勉強に加えて、創作の才能にも恵まれていた陽が幼稚園の頃に描いた「ヒーロー伝記」という自作の漫画に出てくる悪役モンスターのことだ。主人公たるヒーローの宿敵であり、平和の世を乱すインベーダー。物語のラスボス。ラスボスなのだから簡単に倒せるはずもなく、グレムゴブリは幾度となくヒーローを窮地に追い込んだ。ヒーローの家族を誘拐したり、世界中に細菌を撒き散らしたり、やりたい放題だ。

 そんなグレムゴブリには一つ、どんなものにでも姿を変えられるという、極めて厄介な能力があった。時には獰猛な肉食動物に、特には善良な市民に成りすまし、その都度、ヒーローを罠に嵌めようとするのだ。

 常になにかに変化しているグレムゴブリの本来の姿を、一読者である僕は一度も見たことがない。そもそもどうしてグレムゴブリが地球に現れたのか、どうして地球を侵略しようとしているのか、その目的さえ漫画の中では明かされない。きっと陽自身、そこまで具体的には設定していなかったのだろう。

「なぁ聞いたか、京太。とうとうグレムゴブリが俺たちの町にも現れたそうだぞ」

 その日、木崎くんからの刺客によって大怪我を負った陽は、しかし、まるで何事もなかったかのようにあっけらかんとした様子で、僕が座る前の席にどんと腰を下ろした。

「グレムゴブリ……あぁ、枝の王の事件ね」

 日本には古くから伝わる都市伝説のような話がいくつもあるけれど、その中の一つに、枝の王伝説と呼ばれるものがある。性別も年齢も分からない正体不詳の連続殺人鬼伝説。犯行現場にいつも一本の木の枝を置いて去っていくことから、枝の王と呼ばれるようになった猟奇殺人鬼の話。

嚆矢となったのはもう何十年も前の殺人事件で、以来数十年間、枝の王は今でも時折、世間にその姿を現しては、無惨な犯行を繰り返している、らしい。

 とはいえ、それはあくまで都市伝説。本物の枝の王はすでに死亡しているというのが今の定説で、全国各地で発生した殺人事件のうち、現場に木の枝を置いて逃走した犯人はすべて、有名な都市伝説を利用して犯行に及んだ模倣犯、というのが現実だった。

「ほら、これ。今日の新聞」

 前の椅子の背もたれを腹側にして座る陽が、嬉しそうな顔を浮かべて、僕の机にその日の朝刊を広げた。

「ああ、うん、僕も読んだよ、それ」

 鶴松駅近くの城金山の麓で男性の刺殺体が発見された、との見出しが新聞の片隅に小さく掲載されている。全国的なニュースにこそならなかったけれど、事件現場に木の枝が置かれていたという出所の分からない噂が事件発生直後からまことしやかに拡散されたことで、この日は朝から、「枝の王がこの町にもついに現れた」と、学校中が騒然としていた。

「これは間違いなく、グレムゴブリによる犯行だ」

「グレムゴブリっていうか、枝の王でしょ、噂になってるのは。まぁ、実際は枝の王かどうかも定かじゃないけど」

「バカだな、京太は。枝の王もグレムゴブリの仮の姿の一つなんだよ」

「ふぅん」

「……なんだよ、興味なさそうだな」

「興味もなにも……、枝の王はただの都市伝説だし、グレムゴブリにしたって、陽の頭の中だけにしか存在しない空想の生き物でしょ」

 連日の暑さでイライラしていたのだろう、ついそっけなく言い返してしまう僕。しかし陽はそれでもお構いなしに、平然と人差し指を立てて話を続けた。

「それがそうでもないんだぜ。たとえば、ほら、吸血鬼のモデルになったウラド三世って奴を知ってるか?」

「ウラド……なに?」

「ウラド三世。昔のルーマニアだかハンガリーだかの君主様で、敵の兵士を串刺しにして晒し者にしたり、病気の人や貧しい人たちを一カ所に集めて火炙りにしたり、それはもう、やりたい放題だったらしい」

「それはひどい」

「だろ? だけど、そいつは一方で国の英雄でもあった。侵略してくる相手に対して勇敢に戦ったからだ」

「人を串刺しにして火炙りにする英雄、か」世も末だな、とは思う。

「分かるよ、京太の気持ち。そんな残酷な英雄がいていいわけがない。だから多分、このウラド三世ってやつも、グレムゴブリの一種だったんじゃないかと思うんだよ、俺は。英雄たるウラド三世の中にもグレムゴブリがいて、そのグレムゴブリが、ウラド三世に残虐な行いをさせていたんだ」

「うーん……」

 正直、陽がなにを言いたいのか分からなかった。人間の二面性の話? 善悪の問題? 元からして頭の出来にかなりの差がある僕と陽だ。こんな風に、陽の思考に僕が追いつけない場面は昔からよくあった。

 するとその時、どこからともなく口笛が聞こえた。美しさの裏にそこはかとない妖しさの漂う、奇妙で、それでいてどこか懐かしい音色。音のした方に首を捻ると、教室の廊下側の窓から見知らぬ少年が顔を覗かせ、僕たちの方をジッと見てきていた。記憶が曖昧でその表情の細部までは思い出せないけれど、ニタリに唇を吊り上げ、猫背の体を愉快そうに揺らしていたのは覚えている。不気味な少年だった。

「いいね、今の話。すごく気に入ったよ」

 と、少年は言った。着ている学生服のサイズが合っていないのか、中学生が高校の制服を着ているような違和感がそこにはあった。

「はぁ? なんだお前」

 陽が警戒心を露わに眉を逆立てた。ところが少年はそれに臆するどころか、むしろ余計に面白がるようにクスクスと笑った。

「まぁまぁ、そんな殺気立たないでよ。吸血鬼のウラド三世。素敵じゃないか。人間は誰しも善意と悪意を併せ持っている。教師だろうが、政治家だろうが、弁護士だろうがね。そういうことでしょ? 烏山陽くん」

「……なんだこいつ、おい京太、放っとこうぜ、こんな奴」

 陽は気味悪そうに顔を歪めて、窓に向けていた視線を僕に戻した。だけど───僕はこの時どういうわけか、両手でガッチリと頭を固定されてしまったみたいに、そこに佇む少年からしばらく目を背けられないでいた。

「どうしたの、水島京太くん」

 少年が僕の目を見つめてきている。

「なに……が……?」

「そんな怖い顔して、まるで人を殺したみたい」





「───おい、京太、おーい、どうしたー?」

 僕の名前を呼ぶ陽の声で、僕はハッと現実に引き戻された。雑然とした駅前の居酒屋、タバコの煙、鼻を突くお酒の匂い、客たちの下品な笑い声……。

「……あぁ、いや、ごめん、なんでもない」

 どうして突然、あの謎の少年のことを思い出したのだろう。今の今まですっかり忘れていたのに。陽がグレムゴブリの名前を出したから? もちろん、それもあるだろうけど、それ以上になにか特別な意味がそこにはあるような気がした。───それにしても、あの少年は一体、誰だったのだろう……。

「お前、今すげぇ怖い顔してたぞ」

「なんか不意に、昔のこと思い出しちゃった」

「昔のこと?」

「覚えてない? 高校二年の夏頃、僕たちの学校の近くで殺人事件があったでしょ」

「あー、枝の王が鶴松町に現れたって噂になったやつな。あれって、まだ犯人捕まってないんだっけ?」

「いや……、どうだったかな。忘れちゃった」

 事件後、すぐに犯人逮捕のニュースが出ていたような気もするし、それらしい容疑者が一人も見つからないまま、事件は迷宮入りになったという話をどこかで聞いたことがあるような気もした。なにせ枝の王にかこつけた事件の噂は数えきれないほど世間に流れているから、別の事件と別の事件が記憶の中でごちゃ混ぜになってしまっているのだ。

「それで、それがどうしたんだよ」

「いや、別にどうしたってわけじゃないけど。ただ……事件の翌日だったかな、朝、教室で僕たちがその話をしていたら、いきなり廊下から声をかけてきた変な人がいたでしょ。ほら、あの───」

 と、その時、僕は言いかけた口を咄嗟につぐんだ。顔が強張り、全身の血の気がみるみると引いていくのが分かった。

 陽の背後にある店の小窓の外に、誰かがいたのだ。それが誰なのかまでは一瞬のことすぎて分からなかったけれど、窓ガラスに顔を近づけ、そこから中にいる僕と陽を食い入るように見つめてきていた。

「どうしたんだよ」陽が訝るように眉を寄せた。

「そ……そこに、そこに今、誰かが……」

 震える指先を小窓に向ける。が、すでにもうそこには誰もおらず、サラサラと降り落ちる雨に紛れて、僕の怯えた表情がただぼんやりと窓ガラスに反射して映っているだけだった。

「自分の顔にビックリしただけなんじゃねぇの」

 陽はチラリと後ろを一瞥してから、再び僕に向き直って鼻で笑った。

「ち、違うよ、本当に誰かがそこに……」

「誰かって誰だよ」

「それは……分からないけど……」

「外から店の中を覗いてただけだろ、どうせ。俺もたまにするぜ。どんな店かなって」

「いや……、でも……」

 とてもそんな風には思えなかった。そこにいた誰かは間違いなく僕たちの姿を捉え、そして、睨みつけてきていた。

「気にしすぎだって。俺たちとは関係ない」

「でも……」

 カランと足元から音が響いた。動揺のあまり手元が狂い、掴んでいた箸を床に落としてしまったのだ。情けない自分に辟易としながら腰を屈めて、四つ足になる。すると、テーブルの天板越しに、誰に言うでもない陽の独り言がボソリと聞こえた。

「そう、俺たちは関係ない。全部、グレムゴブリが悪いんだ……」

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