見出し画像

アルマートイフェル【第二話】


【第一幕】





 天井の蛍光灯が眩しくて、僕は咄嗟に目を閉じた。暗くなった視界に光が弾け、その中にぼんやりと人影のような残像が浮かんだ。

「京ちゃん───」

 その人影に名前を呼ばれたような気がして、ハッとまぶたを持ち上げる。

 市立病院の大部屋だ。窓際のベッドに横になる父、忍三にんぞうが、天井から注ぐ白色蛍光灯にさらされた眼窩を鋭く僕の方に向けてきていた。

「おい、京太、聞いてんのか」

「───あっ、ごめん、なに?」

「仕事はどうしたって聞いてんだよ。こんなところでぼうっと突っ立ってる暇があるなら、さっさと働きに行かねぇか馬鹿野郎」

「父さん、今日は休みだよ。だから来たんだ」

 窓辺のチェストの上に置かれた月めくり式カレンダーを一瞥する。月ごとにさまざまな動物のイラストが描かれていて、父から滲み出る殺伐とした雰囲気を、それらの可愛らしい動物たちがいくらか和らげてくれている。もちろん厳格な父の趣味であるはずもなく、おそらくは病院の誰かがが厚意でそこに置いてくれたのだろう(あるいは本当に父の殺気を中和するために用意されたものかもしれない)。

 八月十日、日曜日。朝から本降りの雨が続いていた。ネットの天気予報アプリを見ると、どうやら先一週間はずっとこんな感じらしい。

「お前の仕事の事情なんて、知らねぇよ」

「映画館で、ほら。花吉町の駅の近くにある小さな、あそこ。あそこで働いてる」

 僕の職場の勤務体制はシフト制になっているため、いつも決まって土日が休みになるわけではない。今週はたまたまこうして日曜日が休みになっただけで、昨日の土曜日も仕事だったし、明日の月曜日だってもちろん仕事が待っている。

「知らん、そんなもん」

「そう……、じゃあ、しょうがないね」

 今年で七十の歳になる父は、約一年前に胃癌の診断を受けて、それと同時に認知症を併発させた。それまでそんな兆候なんてなかったのに、穏やかな水面に石を落とした途端にそこからブクブクと泡が立つみたいに、父は癌が発覚した途端に、みるみると記憶を失くしていった。

 もちろん記憶のすべてを失くしたわけではないけれど、僕の仕事に関することや、自分がかつて教師をしていたことなんかは、ほとんど忘れてしまった。

 今でもハッキリ覚えているのは、僕を罵るために使う言葉だけ。僕に対する罵倒は、ひょっとすると父にとっては呼吸をしたり、食事をしたりするのと同じような、身体機能に根付いた本能的な行為なのかもしれない。まぁ、もう慣れているから、どうでもいいけど。

「大体お前は昔から説明が下手くそなんだ。声も小さいし、なにをやっても鈍臭い。見ているだけでイライラするんだ、お前は」

「まぁまぁ、そうカッカしないで。───そんなことより、ねぇ聞いてよ。今日、というより、さっきね、変な夢を見たんだ」

「夢ぇ?」

 父の眉根が不快そうに寄った。

「そう、夢」

「ふんっ、夢なんて、くだらない」

「しかも、その夢には、僕もビックリしたんだけど、あの夕美が出てきてくれたんだよ。今日はちょうど夕美の誕生日だったから、だから多分、僕に会いに来てくれたんだ」

「夕美? 誰だそいつは」

「北野夕美。高校の頃の、僕の彼女だよ」

 夢の中で、僕は鶴松町の住宅街にある公園にいた。狭い砂のグラウンドといくつかの遊具が申し訳程度に設置されているだけの小さな公園。

 そう、十二年前、夕美が殺されたあの公園だ。

 駅前にある花屋で買っておいた花束を入り口のブロックにそっと添え置き、片膝をついて両手を合わせた。長く居ると当時の思い出が溢れてきてしまうから、追憶から逃れるように早々と目を開き、立ち上がった。ふと、頭に水滴を感じた。鈍色の空からポツポツと、次第にザーザーと音を立てて雨が降りはじめた。傘は持っていなかったから、僕はあっという間にびしょ濡れになった。

 そういえば以前、職場の同僚に勧められて観た『タクシードライバー』という映画で、ロバート・デ・ニーロ扮する主人公の男が、こんなことを言っていた。

『悪を根こそぎ洗い流す雨は、いつ降るんだ?』

 と、その時、打ち鳴る雨音に紛れて、どこからともなく声が聞こえた。

《雨は降る───》

 禍々しくて、おぞましい、

《お前が降らせるのだ───》

 この世のものとは思えない声だった。

「だ、誰……?」

 僕はたまらず手のひらで両耳を塞いだ。慌てた指先が髪に触れ、毛先に絡まった雨水を頼りない噴水のように飛び散らせた。

 声は、なおも耳の奥に響き続けた。

《悪は、雨に洗い流される───》

 すると、目には見えない声の主の吐息がそっと体に触れて転がるように、優しい手つきで後ろから肩をトントンと叩かれた。

 振り返り、僕は声を失った。

 そこに立っていたのは、死んだはずの───夕美だった。

 彼女の左手には血のついたナイフが握られていた。宝物を離すまいとする幼気な少女のように柄を強く握りしめ、そして彼女は、笑っていた。今にも崩れ落ちてしまいそうな、歪で危うげな笑みだった。

 カンカンカン……! 鶴松駅の方から踏切の警報音が聞こえてきていた。

「───」

 なぜか僕は声を出せずにいた。口は動かしているのに、音が空気を伝わない。

 夕美は吊り上げた唇をかすかに震わせながら、左手のナイフを、それはまるで開き慣れたドアを押し開くように、極めて自然な動作で、僕に向かってずいと突き出した。

「私を殺したのは誰?」

 夕美が、そう言った。ような気がした。

 皮膚が弾け、肉が抉れた。自分の体の中に冷たい異物が食い込んでくる。痛みこそ感じはしないが、顔は凍りつき、足元には血溜まりができた。

 ナイフの柄を握りしめたまま、その場にぼうっと立ち尽くす夕美の背後を、駅を通過する電車の轟音が凄まじい速さで駆け抜けていった。

「───夕美ッ!」

 と、そこで僕はようやく、自分の叫び声で目を覚ました。

 寝ぼけ眼で辺りを見渡した。十二年前に夕美が殺された、あの公園。僕は公園のベンチにだらりと溶けるように体を半分倒して座っていた。頭が嫌に重たく感じ、視界もユラユラと歪んで見えた。遠くの鶴松駅から電車の駆け抜ける音が聞こえた。手には花束が握られ、空を見上げると、ひと雨来そうな気配があった。

 公園の入り口に場所を移動し、腰を屈めて、手にしていた花束をそこに供えた。静かに目を閉じ、両手を合わせる。毎年二回、彼女の命日と誕生日には必ずここに足を運んで、花を手向けるようにしていた。

 もちろんそこには彼女の死を悼む気持ちや、恋人だった者としての責任感も多分にあるけれど、一番にあるのは間違いなく───贖罪の想いだ。


 彼女は、僕が殺したも同然なのだ。





 その後、昼過ぎに公園をあとにした僕は、その足で父が入院している市立病院へとバスで向かった。

 僕の夢の話を聞き終えると、父は退屈そうに欠伸をしながら、「そうかいそうかい」と相槌を打ち、「そんなことより……」と話を変えた。

 いつもこうだ。昔から父は僕になんて微塵も興味を抱かなかった。父にとって僕は愛すべき息子というより、むしろ順風満帆な航海の途中で突如目の前に現れた巨大な岩礁のような、人生という名の航路を阻む、目障りな存在でしかないのだ。

「そんなことより、なに?」

「母さんは最近どうしてる? 元気か?」

 少しだけ表情を緩めて訊ねる父に、僕は毎度のことながら、胸を締め付けられた。

「父さん……、母さんはもう、死んだよ」

 母はすでに僕が小学一年の時に亡くなっている。交通事故だった。その母の死以降、父はそれまで以上に僕に対して苛烈に当たるようになった。ある日突然、協調性や社交性の欠片もない出来損ないの息子の面倒を一人で見なくちゃいけなくなったのだから、当然といえば当然だろう。なんてったって僕は父の人生の航路に立ちそびえる岩礁なのだから、強力な大砲で岩礁を打ち崩す以外に船を前に進める方法はなかったのだ。

「死んだ? 母さんが? 嘘をつけ」

「嘘じゃない。本当だよ」

「いつだ?」

「もう、二十年も前だよ」

「葬式は……葬式はどうした。俺は、あいつの葬式になんて出た覚えはないぞ」

「葬式もちゃんと済ませたよ。父さんがしっかりと喪主を務め上げてくれたおかげで、素敵な葬式になったじゃないか」

「そんな……、そうだったのか……」

 父は、それでもまだ信じられないといった様子でこうべを垂らし、なにか言いたげに何度か顔を持ち上げると、その都度、もごもごと口を揉んだ。

 会話が途切れ、僕は再び窓辺のチェストに目をやった。月めくり式カレンダーのそばにポツンと花瓶が置かれていた。腰のくびれた女性のような形をしていて、そこに数本の花が挿してある。カスミソウだろうか、少しだけ開いた窓から吹き抜ける生ぬるい風に、淡い白色の花びらが心地良さそうにそよいでいる。

 僕がこの病室に来たのは十日ぶりのことだった。その時は空の花瓶がそこに置かれているだけで、カスミソウは生けられていなかったはずだ。これもやはり病院の人が厚意で飾ってくれたのだろうか。それとも父の知り合いが見舞いで持ってきてくれたのだろうか。

 よく見てみると、花と花の隙間に一枚のカードが差し込まれているのに気が付いた。クリーム色の画用紙をちぎって作ったような、名刺サイズのメッセージカード。おもてを見ると、そこにはなぜか汚い文字で、

『みずしまきょうたくんへ』

 とあった。首を傾げ、何度もその文字を読み返す。

 みずしまきょうたくんへ───。

 これは一体、どういう意味だろう。父に贈られてきた花のメッセージカードに、どうして僕の名前が書かれているのか。真っ先に頭に浮かんできたのは、ある一人の男だった。

「父さん、最近ここにようが来たの?」

「あぁ? 陽?」

「陽だよ。ほら、僕の幼馴染の。烏山からすやま陽。ここにある花、陽が持ってきてくれたんじゃないの?」

 幼稚園から高校卒業まで、子供時代の大半を一緒に過ごしてきたあの陽であれば、僕の父がここに入院しているのも知っている。というか、陽以外に、父がこの病院にいることを知る僕の知り合いは一人もいないはずだった。

 とはいえ、だ。果たしてあの陽が、僕に花を贈るなんてキザな真似をするだろうか。しかも、わざわざそれを父の病室に送りつけるなんて……。なんとなく嫌な予感がして、指でつまんだメッセージカードをくるりと裏面に翻した。と、その瞬間───。

『北野夕美を殺したのは誰だ』

 不意に体の内側がボンッと破裂したような衝撃に襲われ、僕は咄嗟にカードをおもてに伏せた。みるみると脈が上がっていくのが、自分でも分かった。また、この文言。一週間前に自宅の郵便受けに入れられていた、あの謎の便箋と、まったく同じ……。

「そんな奴、俺は知らん!」

 父のその怒鳴り声で、僕は我に返った。息が上がっている。なにがなんだか、訳が分からなかった。

「父さん……、陽のことも忘れちゃったの」

 僕は冷静さを取り繕うように抑揚なく言った。全身を這うように駆けずり回る得体の知れない恐怖から、早く気を逸らしたかった。

「忘れたんじゃない。初めから知らないだけだ!」

 父がまた、怒鳴る。感情の起伏に体がもう追いつけなくなっているのか、彼のひび割れた唇が怒声の余韻でピクピクと震えていた。

 父のその哀れな姿に、僕は、ある言葉を思い出さずにはいられなかった。

 数週間前のことだ。職場の事務所で取引先の配給会社にメールを打っていたところ、突然、隣のデスクに座る五つ歳下の同僚、大沢おおさわみなみに名前を呼ばれた。

「ねぇ、水島さん」

「なに?」

 目の前のノートパソコンに顔を向けたまま返事をした。

「人って、いつ死ぬと思いますか?」

「……ん? なんて?」

 思わず大沢さんの方に顔を傾げた。自分の教養を試されているような気がして、うろたえてしまう。

「このあいだ読んだ本でね、そんなことが書いてあったんですよ」大沢さんは眠たそうに欠伸を繰り返しながら、そう言った。「たしか……ドイツのブレヒトって人の言葉だったかな」

「人は、……なんだっけ?」

「人はいつ死ぬのか、です」

「そりゃあ……」僕は少し考えてから答えた。「心臓が止まった時じゃないの?」

「あー、水島さん、それ0点の答えです」

「じゃあ正解は?」

「いいですか、水島さん。正解は───」

 狭い窓の隙間から、いつの間にかポツポツと雨が入ってきていた。慌てて窓を閉めると、風に揺れていた白色のカーテンがふわりと膨らみ、やがて何事もなかったかのように静かに萎んだ。

 忙しなく弾む心臓を宥めるために、片手で胸を軽く抑えた。つまみ取ったクリーム色のメッセージカードは、無意識のうちに花の隙間に戻していた。

「……ねぇ、父さん。人はいつ死ぬと思う?」

 大沢さんからの受け売りを、僕はそのまま父に訊ねた。

「そんなもん、心臓が止まった時に決まってるだろうが」

 父は投げやりに即答した。僕とまったく同じ答え。腐っても親子なのだな……と思いも寄らず痛感してしまう。

「あー……、ダメだよ父さん、それ、0点の答え」

「だったら100点の答えを言ってみろよ」

「人はね───人から忘れられた時に初めて死ぬんだってさ」

 これが、大沢さんの言葉を借りれば100点の答え、らしい。それが本当に正しいのかは分からないけど、ただ、良い言葉ではあるのかな、とは思った。

「ふん、相変わらずくだらないな、お前は」

「まぁまぁ、そう言わずに」

 チェストの上の月めくり式カレンダーを手に取って、八月の空いた白紙のところに、近くにあったボールペンで今の言葉を走り書きした。「忘れないようにね」と、これはもちろん僕から父への皮肉のつもり。

「おい、余計なことをするな、馬鹿野郎」父は鬱陶しそうにそう言うと、窓辺に立つ僕の姿を頭から足先までなぞるように睥睨し、「そんなことより、お前、仕事はどうしたんだ」と、また同じ質問を繰り返した。

 僕は一度大きく息を吸い上げ、喉の先まで出かけた言葉を飲み込むと、肩をすくめ、作り笑いを口元に浮かべて、カレンダーに打たれた今日の日付を指で差した。

「今日は休みだよ、父さん」




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?