サングラスをかけたライオン 3/5
第3章 ライオンとの出会い
1.砂漠へ
その間、トザエモの心にひっかかっていたもう一つ別の問題があった。あの日、レンカが聞かせてくれたライオンの話だ。自分とは何の関係もないはずなのに、何でこんなにひっかかるのだろう。トザエモは自分でもふしぎだった。でもきっと、何かがあるんだ、何かが。
あるときなにげなくアルヌマーニクを眺めていて、トザエモははっと気がついた。アルヌマーニクは銃で撃たれたが、トザエモはその傷を治す薬を持っていた。だとすれば、同じ銃で撃たれたあのライオンを、その同じ薬で治してやることはできないだろうか。
それはまた、ずいぶん無謀な思いつきだった。危険で、そのうえ雲をつかむようなはなしだった。だいたい、あのライオンが撃たれたのがどれだけ前のことなのか、今もまだ生きているのかどうか、生きているとすればどこにいるのかも、分からないのだ。
けれど、トザエモには、奇妙な確信があった。あいつが、きっとあそこにいるにちがいないという。傷を負って気の狂ったライオンが、いかにも身を隠していそうな場所を、あたしは知ってる。ここからずっと西の方、とげのある草しか生えないあの砂漠。あそここそ、まさに荒野だ───いるとすれば、きっとあそこだ。
母さんはあのライオンのことを知っていたのかな、と、トザエモは考えた。
うん、きっと知ってた。知らなかったはずがない。国じゅうで大統領の次に金持ちだなんて、そうそういるもんじゃない。
ふと思った。母さんも、ひょっとしてそれを望んでいたんじゃないだろうか。自分があの薬で、アルヌマーニクだけじゃなく、あのライオンの傷をも治してやることを。もちろん、口に出しては言わなかっただろうけど。もし彼女が自分からやると言ったとしても、きっと危ないからと止めただろうけど。でも、心の底では。
「いいえ、母さん、あたしやってみせるわ」
トザエモは、ひとり呟いた。勇気と誇りが、胸にわきあがってくるのを感じた。この計画は、決して誰にも言うまいと、トザエモは心に決めた。私立探偵にも、ほかのみんなにも。みんな、心配してやめさせようとするもの。これは一人ですべきことだ。そう、アルヌマーニクさえ連れてゆくまい。だれをも危険に巻きこむわけにはいかない。
翌朝早く起きて、トザエモは出発した。裂いた布と軟膏の缶と、水を詰めたびんとを持って。茂みをかき分けてゆくと、服は露にぬれた。ビッテムロシュナとはすっかり反対の方角で、行くあてもないから、道もない。道なき道を強引に進んでゆくうち、たちまち、顔も腕も枝のひっかき傷だらけになる。
砂漠に着いたのは、真昼近くだった。黄色い砂の表面は燃えるように熱い。あざみや、タンポポのお化けみたいな異様な植物が、そこらじゅうに根を張っている。砂に埋もれているのは、動物の骨や、引き裂かれた旗や、宇宙船の残骸なんかだ。暑くてたまらなかった。からからの空気が、かくそばから汗を奪ってゆくので、塩分だけ残された皮膚はひりひりと痛い。
空にはぜんぜん、雲がない。こんな荒れ果てた風景で、こんなに空が青いと、なんだか、どうしようもなく恐ろしくなってくる。こんな遠くまで来たのははじめてだった。いや、距離的な問題じゃない。この地に息づくあらゆる感覚が、これまで慣れ親しんできた世界から、遠くかけ離れているのだ。
トザエモは、ライオンの姿を求めて灼けつく砂漠を二時間近く、むなしく歩き回った。それから疲れ果て、何とか自分を覆ってくれそうな小さな陰を見つけると、ごつごつした岩の間にくずおれるようにしゃがみこんだ。水はとっくに底をつき、のどはからからで、はりつくようだった。
「でも、せっかくここまで来たことが、おろかな気まぐれだったなんて考えないよ」
と、トザエモは考えた。
「昼間はあんまり暑いから、どこかで寝ているのかもしれないし。それにしたって、ひとがせっかく来たのに、出迎えようともしないなんて、失礼な奴だよ」
2.対決
そのときだった、背後のとげとげしたやぶが、突然かきわけられたのは。
トザエモははじかれたように立ち上がって、ふり向いた。
金色のたてがみに囲まれた、恐ろしい顔があった。荒い鼻息が、すぐそばで聞こえる。トザエモは、どくどく波打つ自分の心臓の鼓動を聞いた。
ライオンは、ゆっくりとやぶの間から出てきて、その全身を現した。見上げるばかりの、実に巨大なライオンだった。しかし、その昔はりっぱであっただろう毛皮も、ぼろ毛布か何かのようにすりきれ、その体は、あばら骨がはっきり見分けられるほどにやせ衰えていた。そしてその右の胸にはどす黒い血のかたまりが、見おとしようもなく、べっとりとこびりついていた。
トザエモは一瞬圧倒されてしまったが、すぐに気をとり直して姿勢を正し、ライオンの目をまっすぐに見つめて、話しかけた。
「やっぱり、ここにいたんだね」
ライオンの目には、何の表情も宿っていない。
「・・・あんたのために、薬を持ってきてあげたんだよ───母さんが教えてくれた薬を」
太陽が、二人の上にじりじりと照りつけた。トザエモは相手の答えを待ったが、やはり、何の反応もない。
「これをぬれば、ぜったい楽になるんだよ。アルヌマーニクで証明ずみなんだから」
と、トザエモは続けた。
「もし、じっとしてるって約束するなら、あたしが塗ってあげる。いい? 分かったね?」
トザエモは、一歩ライオンに近づいた。
ライオンが、のどの奥で低くうなった。
トザエモはちょっと立ちどまり、それからなおも二歩、三歩近づいた。
だしぬけに恐ろしいうなり声があがったかと思うと、ライオンの体が跳躍した。とびのいた瞬間、トザエモの左のももに、鋭い痛みが走っていた。
地に降り立ったライオンは、向きを変えて彼女をふり返ると、その凶暴な牙を剥き出しにした。
しかし、今やはるかに怒り狂っているのはトザエモの方だった。
「このばか! 大ばかもの!」
と、トザエモはライオンに向かってどなった。
「お前は自分から命の見込みを捨てたんだぞ! それが、分からないのか? そこまで何もかも奪われて、悔しいと思わないのか?」
ライオンは彼女の剣幕に一瞬ひるんだが、ちょっとの間、前足をひっこめると、やがて頭を下げ、第二の攻撃の態勢に入った。
と、そのとき、二人の耳に、何かの振動しているような、かすかなブーンという音がひびいてきたのだ。ライオンは体をこわばらせ、耳をぴくつかせた。トザエモも音のする方へ目をやった。
音はどんどん近づいてきた。やがて遠くに、一台の深緑色のジープが姿を現した。
「人間がやってくる」
トザエモは呟いた。そしてライオンの方を見ると、彼は落ちつかないようすで、その炎の房のふいたむちのようなしっぽをふり回していた。しばらくの間そうしていたが、やがてゆっくり、やぶの方へ歩み退いた。
「お前、逃げるのか?」
そのことばを無視して、ライオンは岩山をかけのぼり、とげだらけのやぶの間に姿を消してしまった。
トザエモの胸に、再び怒りが、むらむらとこみあげてきた。怒りと、それから言いようのない悔しさとが。
「この大ばかもの! 勝手にしろ!」
トザエモは声を限りに叫び、それから地面に座りこんで、激しく泣き出した。甲高いブレーキとともに、ジープがそばにとまったのも気づかずに。
ドアがバコンと開いて、シャツの袖をまくったひげもじゃの男が飛びおりてきた。
「俺の目の錯覚じゃなけりゃ、今ここを登っていったのはライオン───しかも、恐ろしくばかでかいライオンだったんじゃ───」
男は言いながら近づいてきて、急にぎょっとして立ちどまった。
「おい、お前さん、大丈夫か? ひでえ、大けがだ」
言われてはじめて、トザエモは、自分の足のつけ根から、だらだら血が流れているのに気がついた。流れた血が、足もとの砂地に黒くしみこんでいた。
3.大さわぎ
それからあとのことは、ぼんやりとしか、覚えていない。
男がトザエモを抱えあげようとして、彼女の持っていた荷物に気づき、
「何だお前さん、救急用具をちゃんと一式、自分で持ってるじゃないか。いったい何しに、こんな砂漠のど真ん中に・・・」
と、がみがみ言いながら、裂いた布をひったくって傷口にぎゅうぎゅう巻きはじめた。トザエモはそれを聞いて、ズキッと胸が痛んだ。
「ちがうの・・・」
言いかけたが、ことばが出てこなくて、ただ激しく泣きじゃくるばかりだった。男は勘ちがいして、
「よしよし、分かった、泣くんじゃない。すぐ医者を呼んでやるからな」
と、なだめながら、トザエモを運んでいって、ジープの後ろの座席に横たえた。
それからものすごいスピードで発車させながら、
「家はどこだ?」
と、どなった。
「ビッテムロシュナの近く・・・ずっと東の、沼地のそば・・・」
やっとそれだけ言うと、トザエモはぐっと息を詰めた。今ごろになって、激しい痛みが襲ってきたのだ。
大ゆれにゆられて、人々のざわめきやあわただしい物音を夢うつつに聞き、気がついたら、自分のうちのベッドの上だった。知った顔が、まわりをとり囲んでいる。さっきの男、私立探偵、ミス・ラフレシア、それから足指亭の常連たち。
トザエモが目を開けると、安堵のため息が、みんなの口からもれた。
「さあ、どいたどいた」
と、声がして、白衣を着こんだはげ頭の医者が近づいてきた。
「こっちは忙しいんだからな。たった一人のために、丸一日割いているわけにはいかん」
医者はトザエモのようすをちらっと見ると、
「脱水症状を起こしている。すぐに水を与えなさい」
と命じ、それから、傷口に巻かれた布をすばやく解いて、アルコールで消毒した。とびあがるほどの痛みにトザエモが耐えている間に、彼は例の軟膏を手に取り、ちょっと中身を吟味すると、何食わぬ顔でそれを傷口にすりこんだ。ふっと痛みがやわらいでゆくのに、トザエモはびっくりだ。医者はその上から新しい布を巻きつけると、
「当分の間、安静にしてなきゃいかん。命には別状ない。わしはもう来ないからな」
と言い残し、救急箱のふたをしめ、助手を従えてさっさと帰っていった。
トザエモはもちろん、どうしてこんなことになったのか、みんなに説明しなければならなかった。そして当然のことながら、さんざんの非難をあび、口々に説教される次第となった。ただ、私立探偵だけは何も言わないで、すみの方で一人、悲しそうな顔をしていた。
トザエモをうちまで送り届けてくれた男は、みんながひきとめたのを断って、再びジープに乗りこんで行ってしまった。何でも、月に一度、要るものを調達しに、遠く離れた店まで出掛けていく途中だったということだった。
「暗くなるまでに着かないと、まずいんだ。道が分からなくなるから」
「ほんとに、どうもありがとう。あなたが通りかかってくれて、全く幸いでした」
と、トザエモが言うと、彼は、
「うん、俺もほんとに、そう思うよ」
と言って、同意した。
みんなが帰ってから、トザエモは、ちょっと自信を失くして考えた。自分がしたことは、そんなに途方もなくばかげたことだったのかな? けれど、考えても分からないので、そのうちめんどうくさくなって、やめてしまった。
「どっちにしろ、お前だけは認めてくれるでしょ? あたしが例え目的を遂げられなかったにしても、ともかくやるだけはやったってことを・・・」
と、トザエモは、アルヌマーニクに言った。
「それにしても、近所の人たちって、ときによってはうるさく思えることもあるのよね」
4.花のベッド
それからずいぶん長いこと、トザエモは、ベッドの上でじっとしていなければならなかった。何もすることがないので、しばらく放っておいた<緋色の研究>を、再び読みはじめた。
読み進むペースはごくゆっくりだったけれど、それでも、ロンドンが舞台の第一部はもう読み終えていた。ここまでで、犯人は捕まって、事件は一応の解決を見ている。だけど、状況は、あまりにも不可解すぎた。要するに、これが今現在の状況だった。もっと深いところを理解するためには、第二部へ進んでゆかなければならない。トザエモは居ずまいを正して、第二部のページを開いた。
ここへ来て、舞台はいきなりユタの砂漠にとび、さっきとは全然関係ない話が始まった。砂漠の真ん中で迷い、飢えと渇きとで死にかけた老人と小さな娘は、約束の地を求めて旅する一群の人々に助けられ、彼らと行動を共にする。数々の苦難を経て、ついにたどりついた約束の地。そこで二人は幸せな生活を送り、娘は美しく成長して、恋人もできる。しかし、やがて約束の地に息づくこの組織の恐るべき内幕が明らかになる───暗黙の掟と圧力、密かに行われる異端者の抹殺。娘と他の若者との結婚を強制されるに及んで、老人と娘とその恋人とは、ついにこの地からの脱出を図る・・・。
こうして、物語はだんだんに、現実に近づいてきていた。ロンドンは母さんや大統領のいるところで、トザエモはまだ行ったことがないが、この砂漠なら知っている。ここにはあそこのイメージが忠実に再現されている。見捨てられ打ち捨てられた、なおかつ奇妙な情熱を帯びたあのイメージが。
一日じゅううちにいると、知り合いがひっきりなしに訪ねてくる。道々花をつんできて、トザエモの具合をたずね、自分の状況についてしゃべり、じゃあがんばれよと言って帰っていく。
はじめのうちは、まだよかった。そのうち部屋じゅうが花でいっぱいになって、身動きがとれなくなった。こっちも、何度となく同じことを言わされるのが苦痛になってきた。そこでうんざりして、もう来ないでくれと頼むと、みんなは戸口のところまでだけやって来て、やっぱり、花をどっさり置いていく。トザエモはいじらしく思い、悪いことしたな、と考える。かと言って、いちいち応対してたらきりがないしなあ───みんな、あたしがだいじょうぶだって知ってるなら、放っといてくれればいいのに。
そこまできて、ふっと思った───家出したときの母さんも、こんな気持ちだったのじゃないかな。みんなの親切が、母さんにしてみれば、かえって苦痛だったのだ。がまんしてがまんして、とうとう家出を決意せざるをえなかったほどに。
傷の手あてをしてくれた医者は、それからもいくどかやってきて、トザエモのようすを診察した。そして、帰り際にはきまっていつも、ぶすっとした顔で「わしはもう来ないからな」と言って帰っていった。
ひまになるとよくライオンのことを考えた。かわいそうなあのライオン。あまりにもひどい目にあわされて、良識さえも失ってしまったんだ、あいつは。サングラスは、どこになくしてきたんだろう。涙のあとが、人に分かってしまうじゃないの。───ライオンのサングラス。失われてしまったもの。ライオンのサングラス。───ひょっとして、これがこの事件のキーワードなのかな?
「直接関係ないこと、か」
もう一度会ってみたい気がした。でもたぶん会えないだろうと思った。
5.雨の中で
さらに夜と昼とがめぐってきた。ハンモックの上で陽ざしをあびながら外を眺めるのも、いいかげん、退屈だった。むしょうに出歩きたくてたまらなかった。
<緋色の研究>も、ほとんど読み終えた。老人が殺され、娘はさらわれる。復讐を誓ったその恋人は、敵を追い続けてアメリカからヨーロッパへ渡り、長い年月を経てついにその敵をロンドンで殺す───。
何十年も昔の悲劇の結末が、ホームズの遭遇した事件の正体だったのだ。
トザエモは考えぶかげに読み、さいごの十ページくらいのところで本を閉じた。物語の糸は解けた。ここから先は、自分で考えなければならない。
その日は、この季節には珍しい雨模様だった。天から降りそそぐ水の粒が沼のおもてに穴を穿ち、何千という木の葉を打ちたたくひそやかな調べが、そこらじゅうをすっかり満たしている。
「とにかく、でかけるって言ったら、でかけるんだから。あんただって、あんまりだらだらしてたら、そのうちひとを乗せることも忘れちゃうよ」
トザエモはきっぱりと言って、アルヌマーニクの背によじのぼった。治りかけの足を、まだ少し、かばうようにしながらだったけれど。
「・・・それに、あたしだってこうも長いこととじこもってたら、きのこなんか、生えてこないとも限らないし」
アルヌマーニクは、彼女を背に乗せてゆっくりと森の中へ入っていった。
久しぶりに見上げる空だった。雲が広がって灰色に垂れこめ、ゆっくりと南の方へ動いていく。顔に落ちる雨のしずくが心地よかった。木の葉はざわめき、白く翻る・・・森のみどりの濃厚な香りが漂っている・・・。
トザエモは深呼吸して、このかぐわしい空気を全身に吸いこんだ。この大地の生み出した清浄な空気が、わずらいごとをすっかり運び去ってくれるようだった。
「そうだね、あたしは母さんに会いに行こう───ひとりであれこれ考えるより、実際に会って話した方がよっぽどいいよ」
と、トザエモは決意した。
「もいちどいっしょに住んでくれるなら、連れて帰るし、大統領のところにいたいというなら、別にそれでもいいじゃないの。自由がほしいと思ったら、ひとの自由も認めなくちゃね。例え相手が母さんだっても」
今や、自分の行くべき道がはっきり分かったのだ。手のひらで、アルヌマーニクのかたい皮膚に触れた。その下で脈々と胎動する命を感じた。そしてアルヌマーニクの方もまた、女主人の決意を感じ取ったのだ。
「こんどは、お前もいっしょに行ってくれるね」
トザエモが言うと、アルヌマーニクはその全身で、力強く答えを返した。
<第4章へつづく>
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