「メリーゴーランド・メリーメリークリスマス」
第1話「メリーゴーランド」
しまった。うっかり提出するのを忘れていた。
期限が切れているのを知って、すみれ遊園地たった一人の社員アキオは青ざめた。
遊園地の運営にはさまざまな許可がいる。興行場法、消防法、その他さまざまな法律によって、安全で安心な遊園地を営業する義務が求められる。
すみれ遊園地のアトラクション遊具が動かせるのは昨日、クリスマスイブまでだった。電気室で開園前のチェックをしていたアキオは、壁に貼ってある許可証を見て、気がついた。今日から乗り物が全て使えない。
今から出しても再認可されるには2週間以上はかかる。年末年始を挟むので1月の半ば、いやもっと先になってしまうだろう。
「最悪だ…」
思わずつぶやきが口に出る。本当に最悪だ。
なぜならこのすみれ遊園地は年内で閉園することになっていたからだ。
「まちの小さな箱庭遊園地」がキャッチフレーズだったすみれ遊園地は、遊具の数は少ないが、その分敷地内にはベンチやテーブル、芝生の広場がたくさんあった。人々は自分の庭感覚でここを訪れ、好きなところに腰を下ろしてピクニック気分で弁当を広げて1日を過ごした。
ところがその小ささと気軽さが仇となり、同じ地方に世界的大型アミューズメントパークが開業すると、一気にみすぼらしくなってしまってごっそりと客を取られ、入場者数は年々減っていった。
最近では人影をほとんど見ることなく営業を終えてしまう日もあるくらいだった。
昨日が最後の営業日になってしまった。クリスマスに来ようとしていた人がいたかもしれない。急な閉園を残念に思うだろう。誰にもお別れを言ってもらえることもなく、静かに幕をおろすことになるなんて。
アキオは重い足取りで園長に報告に向かった。
開園の頃からここで働いていて今は社長となっている園長は、どんなに怒るだろうか、どんなに悲しむだろうか。想像もつかない。アキオは考えられるあらゆる言い訳を頭に浮かべてみたが、正直に伝えること以外にできることが思いつかなかった。
重い気持ちで事務所に入ると、園長は段ボール箱に書類を詰める作業をしていた。
「おはよう、アキオくん」
といつものように挨拶をする園長に、アキオは事情を隠さずに伝えた。
園長は無表情で話を聞いていたが、やがて目線を下げて数秒何か考えてから、意外なことに「はは」と力なく笑って、こう言った。
「君はうっかりしてるな、相変わらず」
拍子抜けしたアキオは、園長が理解できていないのだと思った。
「あの、これで最後のクリスマスも年末も営業できません…つまり、もう閉園してしまったんです。終わり、なんです」
「ま、いいよ。焼け石に水だから」
優しい口調ながら園長の眉は悲しげに八の字になっていた。
たしかに負債はもう数億円。クリスマスに一日や二日開けたところで、何人がここを訪れるだろうか。ひょっとしたら開けているだけで借金は膨らんでしまうのかもしれない。しかし、そういう問題ではない。さよならが言いたいだけなのだ。
「本当に、本当にごめんなさい」
「アキオくん、次の就職先ではこんなうっかりしてたらダメだぞ。じゃ、今日は一日整理整頓でもやりますか。イルミネーションも外さんといかんしな」
最後の年に最高のイルミネーションを作ろうと、スタッフ総出で、と言っても園長とアキオと数人のアルバイトで、一週間かけて飾り付けた。すみれ遊園地にはお金がない。だから、処分されるはずの家庭用イルミネーションをたくさん集めた。少し統一感がないかもしれないが、どこにも負けない手作り感溢れる温かい光に包まれた。
アキオは立ち尽くした。自分のせいですみれ遊園地が悲しい終わり方をした。なのに、誰にも怒られない。もう少し園長に何かを言わないと。でも言葉が出てこない。
園長はそんな空気を察して気まずくなったのか、「何かあったら内線は携帯に転送されるから、電話には出なくていいよ」と言い残して外へ出て行ってしまった。
事務所の壁には古びた宣伝用ポスターが何枚も貼られている。数年おきに作られたすみれ遊園地の宣伝ポスターの中で、家族やカップルが楽しそうな笑顔を見せる。
すみれ遊園地の思い出が蘇ってくる。
家族で月に一度はやってきた。芝生の丘で母が作ったおにぎりを頬張って父とフリスビーをして遊んだ。
遠足もここだった。初めてのデートもここだった。この場所にはアキオの今までの人生が詰まっていた。
アキオの一番のお気に入りはメリーゴーランドだ。すみれ遊園地のメリーゴーランドは白とゴールドのクラシカルなデザインで、アキオが毎日磨いているからか、元々の質がよかったからか、設置されて何十年も経つのに馬も馬車もピカピカだった。
夕方になってライトアップされると、回転しながらそのまま夜空へ舞い上がっていくんじゃないかと思うほど美しかった。
就職活動に失敗して心が空っぽになったアキオが、知らずと足を向けたのはこのすみれ遊園地だった。誰も乗っていないメリーゴーランドをぼんやり眺めていた時、このキラキラした乗り物を守りたい、ここで働きたいと強く思った。
けれど、ポスターの中にあるようなたくさんの笑顔には、もう二度と会えない。
「あ…俺もできることしないと」
アキオはクリスマスイルミネーションの試験点灯をするために電気室に向かおうとして、ふと立ち止まって苦笑した。こんなことをしても意味がないのだ。もうイルミネーションを点けることもないのだから。
ポスターが滲んでぼやけてきてぽたぽたと音が聞こえたとき、自分が泣いていることに気が付いた。
情けない。悔しい。
自分の大切な場所を自ら壊してしまった怒りがこみ上げてきて、涙となって溢れ出す。
その時、事務所の扉が勢いよく開いた。
「おい!」
園長が飛び込んできた。
アキオは顔を見られないように下を向いた。
「どうしました?」
「開くぞ」
「え?開くって…」
「オープンするんだよ!今、電話きてさ、これから一日貸切にできますかって」
「貸切?ここを?でも、乗り物使えませんよ?」
園長は興奮しながら答えた。
「乗れなくても灯り点けて動かしといてくれたらそれだけでいいって。乗るのが目的じゃないんだってさ。なんか子どもたちとかその家族とか生活が苦しい人たちとか、とにかくみんな集めて、すみれ遊園地でパーティーするって言うんだよ。お金も払うって。俺はいらないって言ったんだけど!」
アキオの中で膨らみかけた気持ちが急に萎んだ。
「園長、それってからかわれてるんじゃ…」
すると園長は一番の笑顔で言った。
「からかわれたっていいじゃないか!騙されてもいいと俺は思うよ。いや、むしろ騙されたいよ。なあ、アキオ、一緒に準備しようよ。ここでみんなが笑顔になるパーティーが開かれる、って想像するだけで、最高だろ?」
嘘でもいい。イタズラでもいい。
クリスマスにたくさんの人たちがすみれ遊園地に来て、イルミネーションを見ながら笑顔になる。アキオはそんな光景を頭に思い描いて、幸せな気持ちになった。
この遊園地にはまだまだ夢と希望が詰まっている。
「俺、電気室行ってきます!」
「おう!頼むよ!」
アキオはわくわくしながら電源を入れる。
まだ明るい中、クリスマスイルミネーションが灯る。軽快な音楽が聞こえる。小さな観覧車が回り出す。
すみれ遊園地自慢のメリーゴーランドが動き始めた。
第2話「クリスマスミール」
しまった。うっかり発注ミスをしてしまった。
リエは自分の迂闊さを呪った。まさかこんな単純なミスをしてしまうなんて。
夫の浮気が原因で離婚した後、リエは小学生の息子を二人育てながら小さな食品会社を立ち上げた。扱うのはミールキット、つまり簡単に1食分の食事が作れるセットだ。食べ盛りの子供たちに毎日の食事を用意するのは大変だ。ましてや、仕事をしながらだと栄養も偏るし時間も定まらない。その苦労からミールキット販売を思いついて、たった一人で起業した。リエの会社のキットは500円のワンコインから1000円くらいまでと格安だったが、栄養バランスがよく手順も簡単だった。だから特にこの半年は売り上げが伸び、ようやく会社が軌道に乗ってきた。今年は社員も二人採用することができた。新入社員は二人ともシングルマザー。リエより少し年下だ。境遇の似た3人で会社の未来を語り合えるようになっていた。
業績が上がってきたところで、今年は思い切ってクリスマスミールセットを販売することにした。オードブルにクリスマスチキン、ピラフにサラダ、そこにケーキも付いて、価格は強気の3000円。クリスマスであらゆるものが高値の中、それでも原価は度外視した。いつも購入してくれている顧客へのクリスマスプレゼントのつもりだった。
発注は100セット。これくらいは売り切る自信があった。
ところが、蓋を開けてみたら注文が1つも入らない。普段から安いミールキットに慣れている顧客に、3000円はやはり高すぎたのだ。
損はするが割引して売り切るか、クリスマスプレゼントとしてどこかに寄付でもするか。そうなったら数十万円の損害になるかもしれないけれど、仕方がない。そんなことをクリスマスが来るまでぼんやりとリエは考えていた。
クリスマス前日。冷蔵庫に積み上げられていくクリスマスセットの箱の数を見て驚いた。
「あれ?多いな…」
社員の二人も顔を見合わせている。
「リエさん、これ、100以上ありますよね?」
慌てて発注伝票を確認した。
「え?1000セット?私、桁を間違えた?」
発注したのはリエだ。信じられないことだが、パソコンで入力をする際にキーを多く叩いてしまったらしい。
ここまでビジネスに絡むミスをしたのは初めてだ。
100万円単位の損害は小さな会社の存続に関わる。不安がリエの胸に広がる。どんなことがあってもクリスマスミールセットの販路を見つけなければならない。
「ごめん、私のせいだ」
リエは泣きそうな声を出した。
「大丈夫です!リエさん、何とか1セットでも売りましょう。私、学生時代の友人たちに声かけてみます」
2人ともすぐにオフィスに向かってくれた。
次々と箱が並んでいく。
「これ…冷蔵庫に入り切るかしら」箱を数えながら、悪い予感がしてもう一度発注伝票を確認した。
1000セットの誤発注ではなかった。
「い、10000セット?!嘘でしょ…」
なんと二桁も間違えていたのだ。
今日中に売り切れなかったら単純計算で3000万円近い損失が出る。そうなったらもう会社は持たない。
リエは頭を抱えた。
駅か公園か商業施設でひたすら手売り販売する?いや、食品の路上販売の許可は申請していない。今からは間に合うわけもない。
SNSで拡散させて困っていることを知ってもらう?ダメだ。こんなミスをしたなんて誰が信じてくれるのだろう。きっと嘘つき呼ばわりされて大炎上するに決まっている。
全部冷凍してこれから毎日の食事にする?どこにこんな大量の箱を冷凍できる場所があるのだろう。その維持費だけで干上がってしまう。
とにかくやれることはすべてやらなくては。自分には責任がある。リエはいつも数十単位で購入してくれているお得意先に自ら電話をかけ、メールを送り続けた。しかし、あいにくの週末。相手が出ない。返信が来ない。
昼を回った。タイムリミットは少しづつ近づいてきている。
もしこのまま在庫になって廃棄することになってしまったら。社員の彼女たちの人生はどうなるのだろう。借金もしてしまった。息子たちはこれからお金がかかる。あまりにも単純なうっかりミスで、たくさんの人たちの人生が変わろうとしている。
目の前が真っ暗になった。
その時、一番年下の社員が大きな声を上げた。
「リエさん!あの、私の友達がクリスマスセット、あるだけ買ってくれました!」
「え?あるだけって…10000セットって言った?」
「言いました!言いました!そしたらそれ全部買うって」
「嘘よね?騙されてない?」
「私も信じられません!だって、その友達、大金持ちでも何でもないんですから。でも、嘘はつかない子です。代金ももう振り込まれてます!3000万円!」
「助かった…あなたの友達、一体何者?何者でいい!」
3人は手を取り合って喜んだ。
「ドライバーさんにお願いして保冷車にもう一回積み替えて!私も一緒に運ぶ」
「リエさんが自分で行かなくても」
「買ってくれた人にお礼が言いたいだけなの」
リエはトラックの助手席に乗り込んで届け先の住所を確認する。
「私たちも後から行きます!」
2人が声を揃える。
「メリークリスマス!リエさん」
「メリー…クリスマス」
気恥ずかしくて少し小さな声でリエは答えた。
お礼が言いたいだけじゃない。買ってくれた人に、食べてくれる人に「メリークリスマス」と言いたい。
きっとこのクリスマスミールが届く場所は、「メリークリスマス」が恥ずかしくなく言える場所なのだろう。リエはそう信じていた。
第3話「ホームレス」
しまった。うっかり炊き出しの時間に遅れてしまった。
ゲンジは舌打ちをした。時計を持ってなくても時間の感覚はいつも正確だったのに。
空き缶ゴミに紛れて捨てられていた小さなおもちゃ。つい懐かしくなって拾ってしまった。その金属製のおもちゃはもう何十年も前に廃盤となったものだった。
単純な作りだが、複雑な動きをするので修理は難しい。ゲンジ以外にそれを直せる人はもういないだろう。
夢中でいじってるうちに炊き出しの時間が過ぎてしまっていた。
公園で週に一度行われるホームレス支援の炊き出しが、ゲンジにとってお腹を満たす以上に安らぎとなっていた。
炊き出しに間に合わなくて1食分損してしまった。
腹が減ると元気が出ない。元気が出ないから腹が立つ。ゲンジは今せっかく直したおもちゃを地面に投げつけたくなった。イライラが抑えられない。
なんでこんなことになったのだろう、と自分を呪った。
ゲンジは小さな玩具メーカーで働くおもちゃ修理職人だった。
土産物やブリキのシンプルなおもちゃを作る町工場みたいな会社は、販売も修理も請け負っていた。
子供たちの笑顔を見るためにみんなで和気あいあいと働いていたころはよかった。
ところが、画期的なマイクロチップが開発され、それを導入してコンパクトなデジタルゲーム機を作ったところ、それが大ヒット。日本のみならず、世界中へ手のひらサイズのゲーム機は広がっていった。次々と対応ソフトが販売され、そのたびに爆発的な売れ行きとなり、リニューアルされるごとに性能は上がって高機能となった。小さな工場は貸しオフィスに移り、やがてビルを買い上げて、今や関連企業も含めると従業員やその家族だけで数万人、その地方のみならず世界に名前が知られる大企業となった。
変わったのは会社の規模だけではなかった。たくさんの投資が入り、さまざまな人材が登用されていった結果、大きなビジネスに関係のない部署は清算されていった。
ゲンジのいた修理部門は、会社の原点の一つということで、まだ最後まで残っていた方だった。しかし、デジタル化の波に押されて、昔ながらのおもちゃを修理する機会は失われていった。町のおもちゃ工場のころから一緒に働いていた社長からは、技術を身に着けて別な部門に移ることを何度も打診されたが、ゲンジは頑なに断り続け修理にこだわり、いつの間にか社長との縁が切れた。ゲンジだけが悪かったのではない。あんなに優しかった社長も、人が変わってしまって会社を大きくすることだけに夢中になったのだ。
そうしてゲンジは、会社を辞めた。職人としてのプライドからその他の仕事に就くこともできず、ホームレスとなった。
腹が減った。空腹のままじゃどこに行けやしない。新しい一歩なんて歩み出せるわけがない。
ポケットの中を探ってみると10円玉が一つだけ出てきた。
「腹の足しにもならない金なんて。こんな金で幸せになれるわけねえじゃねえか」
俺は悪くない。俺以外の誰かが悪い。
虫のいどころが悪いのか、そんな考えが頭を巡る。
ゲンジがいる公園の片隅には公衆電話ボックスがあった。
ゲンジは思いついた。この10円で誰かに嫌な思いをさせてやろう。苛立った気持ちがゲンジの行動を後押しした。
ボックスに入って受話器を取り、頭の中にあるたった一つの番号、昔自分が働いていたおもちゃ工場の事務所へとダイヤルを回す。
もし誰かが出たなら、俺とは関係ないそいつに文句を言ってやる。お前のせいで俺は今こんな暮らしなんだ、お前は人を不幸にしているんだ、と。
でも誰もいるはずがない。事務所の建物自体とっくに解体されているだろう。電話は繋がらないはずだ。本当はゲンジも誰かを傷つけたくはないのだ。
呼び出し音が聞こえた。
(まだあの事務所があるのか…)
「…はい」
出た。男の声だ。どこのどいつだかわからないが、とにかく悪態をついてやろう、ゲンジは息を大きく吸い込んで、思ったことを全て受話器にぶつけた。
「…お前が誰かなんて関係ない。俺はな、本当はこんな生き方したくなかったんだ。今こんなに苦しいのはお前のせいだ。俺は悪くない。ただ不器用に生きてきただけだ。不器用すぎたんだ。お前は人のことを不幸にしてきた。その報いがいつかお前に降り注いで、お前も俺みたいに最悪な人生を送ることになるんだ。どうだ?悲しいだろう?」
言葉にしながら、ゲンジはどんどん悲しい気持ちになった。
もし今もあの工場があるなら、ひょっとしたら俺の知ってる誰かを傷つけているのかもしれない。
すると、優しい声が返ってきた。
「…悪かった。すまなかった」
(え?今何て言ったんだ?誰かが俺に謝った。見ず知らずの俺に)
「…辛かっただろう。苦しかっただろう。一生懸命に生きたことは悪くない。そんなあんたを抱きしめてやりたいんだ。頑張ったなって」
声を聞いていくうちに、暖かいものがじんわりと心に広がっていった。ゲンジは胸につっかえていたものが取れた気がした。心からこの人には幸せになってほしいと祈った。
「あんたはいい人だな。ありがとう。聞いてくれて。あのさ、俺みたいになるなよ。俺みたいに。あんたは俺とは違う。いいやつだ。俺みたいにならないでくれよ。お願いだよ…」
10円分の通話は終わり、ツーツーと電子音がした。
ゲンジはボックスを出て、ふらふらとベンチに座った。
幸せになる一歩を踏み出したくなった。しかし、そのためには今何か腹に入れたい。ゲンジは目をつむった。
「ゲンジさん」
ホームレス支援団体の若い女が話しかけてくる。
「ご飯、どこかで食べたんですか?今日炊き出し来なかったでしょ?」
「食べてねえよ。腹が減った」
そういえば、この子はいつも二人連れだった。ゲンジは不思議に思って尋ねた。
「もう一人は?あの子は長いこと見ないな」
すると彼女は一瞬だけ悲しい顔になった。
「亡くなったんです。交通事故で。半年も前に」
ショックだった。そしてゲンジは思い出した。
今日一日中ゲンジの頭の中でぐるぐる回っている言葉は、亡くなった女の子がゲンジにかけてくれたものだ。
初めてその子に会った時、彼女がゲンジに言ったのだ。
「ゲンジさん、お腹がいっぱいになったら幸せになります。幸せになったら元気が出ます。元気が出たら明日に向かって歩けます。踏み出すためにまずはご飯を食べましょう」
だからゲンジにとってこの炊き出しが大切だったのだ。
本当はゲンジはずっと歩き出したかった。いや、今からでも遅くない。今日から一歩を踏み出すんだ。
「ゲンジさん、お腹が空いてるなら今からクリスマスパーティーに行きましょう」
「クリスマスパーティー?」
「そうなんです。美味しいご飯があるんですよ」
本当だろうか。さっきまで他人に悪態をついていた自分がパーティーになんて行っていいのだろうか。
でも、もしそこが柔らかな光に満ちていたなら、もしお腹いっぱいにご飯を食べられたなら、歩き出す勇気をもらえるはずだ。
ゲンジはさっき直したばかりのブリキのおもちゃのネジを巻いた。
手の中で小さなおもちゃのメリーゴーランドが動き出した。
第4話「ホスピタル」
しまった。うっかり内部情報を漏らしてしまった。
クルミは自分の軽率さにうんざりした。
今までにも何度もミスを重ねていた。患者のために行動しようとすればするほど、患者にのめり込み、つい肝心の冷静さを欠いてしまうのだった。
やっぱり自分は看護師には向いていないのかもしれない。子供の頃からの夢だった看護師になれたのに、この仕事をやっててよかったと思えたことがなかった。
クルミが勤めているのは、この地方で唯一の子供専用病院だ。
軽傷から重い病気までさまざまな診療科で総合的に子供に向き合っている。
朝から院長の姿が見えなかった。
気さくで明るい院長はいつも朝はナースステーションに顔を出して、看護師たちと冗談を言い合う。こども病院の院長らしく誰に対しても目線の高さが同じだった。だからつい看護師たちも院長には友達感覚で接してしまう。
院長は現役の医師で、たくさんの子供たちの主治医となっている。午前の診療には何人もの子供たちの予約が入っている。不安になったクルミは看護師長に許可を得て携帯電話にかけてみた。
院長はなかなか出なかった。
「…はい」
「院長!もうすぐ診療始まりますよ!」
クルミは立て続けに言葉をぶつける。
「子供たち来てますよ!ユウトくんはまた調子が悪くなったのに、入院したくないって言ってるんです。クリスマスに病院は嫌だって。それから4階に入ってるモモちゃんは朝からずっと泣いてます。サンタさんに退院させてって言ったのに、朝起きても病院だって。サンタさんなんかいないって。お母さんが困っちゃって」
「…おい、君、ちょっと待て」
電話の声をかき消すようにクルミは話を続けた。
「クリスマスパーティー、やっぱり開けませんか?病院のお金がないのはわかってるんですけど」
「…お金がないのか?」
「そんなの院長が一番わかってるじゃないですか!お金がないから毎年の行事もできないんですよね?でもせめてクリスマスパーティーくらいないと子供たちも頑張れないじゃないですか!院長?聞いてます?」
「あ、いや、私は院長ではないんだ。ただ忘れ物の電話に出ただけで」
「え?…あ、あの…し、失礼しました!」
思わず電話を切ってしまった。
誰だかわからないまったくの赤の他人に患者さんの個人情報や病院の内部情報を伝えてしまうなんて。
なんでまず確認をしなかったのだろう。
この病院にお金がないということがもし広まってしまったら、十分な医療が受けられないと思った人たちが病院に来なくなる。そしたらさらに病院にお金がなくなってしまう。
落ち込んだクルミは診療前の準備をして、短い休憩の時間にグループLINEにメッセージを投稿した。
「おはよ。私、また仕事でミス。ホントにダメダメ」
高校のころからの仲良し3人組で作ったグループLINEだった。
卒業してからはみんな忙しくて何年も会えてないが、週に何度もメッセージを送りあい、お互いに励ましあってきた。
だからクルミは何があっても乗り越えられてきたのだ。
すぐに返信がつく。
「どした?」
「クルミなら大丈夫。元気出せ」
2人からは絵文字と共に温かい言葉が続く。
こうやって人に頼ってばかりでいいのだろうか。
友人たちは2人とも自分で自分の道を切り拓いているのに。
1人は若くして結婚し子供もできたが、離婚して子育てに奮闘している。最近小さな会社で正社員として働き始めたばかりだ。
もう1人は別の友人と共にNPO法人を立ち上げ、生活が苦しい人たちのための居場所を作ることに一生懸命だ。辛く悲しい出来事もあったが、今は前向きに活動をしている。
高校時代「人のためになる仕事をしよう」と3人で誓い合ったことを思い出した。
子供たちがクリスマスソングを歌っている。
入院している子供たちで作った合唱団。
子供たちは子供たちなりにクリスマスを楽しもうとしている。
私は私ができる精一杯のことをしなければ。子供の笑顔のために。
子供たちの優しい歌声が響く中、電話が鳴る。
「院長」と表示が出ている。
しばらく迷ったが、クルミは自信を持って受話器を取った。
「はい、先ほどは申し訳ありませんでした…」
第5話「スノードーム」
しまった。うっかり手を滑らせた。
スノードームがスローモーションで床に落ちていく。鈍い音がした。
ミチコは祈りながら拾い上げた。
壊れていないように見えた。
「よかった。割れてない」
と胸を撫でおろした瞬間、手にぬるっとした感覚があった。
見ると大きなひびが入っていた。中の液体が染み出している。
「そんな…」
カーテンから漏れた光に当たって、ガラスの中の世界が輝いている。
小さなガラスの球体の中には、観覧車とメリーゴーランドがある遊園地がある。母親と女の子が手を握って遊園地に佇んでいる。今から二人で何か乗り物に乗ろうとしているのだろうか。それとも遊園地のある景色で思い出を語り合っているのだろうか。
まだ小学生だった時に娘がミチコの誕生日にプレゼントしてくれたスノードーム。
大切な大切なミチコの宝物だった。
ミチコの娘ミサは、子供の頃から優しい女の子だった。
大学を卒業するとホームレスの支援をする団体を友人たちと立ち上げた。それに賛同する若者たちが集まってきて、どんどん支援の輪が大きくなった。ミサはみんなが温かいご飯を食べて、暖かい布団で寝られる社会を作ろうとしていた。
それなのに。
半年前、居眠り運転のトラックにはねられてミサは命を落とした。
あの子がこの世から消えてしまった。あの子がいない世界がこんなに暗かったなんて想像もできなかった。
ミチコはそれ以来ずっと考え続けた。
(娘の代わりに私が死んでしまいたかった。私なんて何の役にも立っていない。今もただこうして悲しくふさぎ込んで部屋に籠っているだけ)
きっとミサなら何があっても誰かのために汗をかいてくれていたはず。私は娘のようにはなれない。
もう二度と前向きにはなれないと思っていた。
毎日スノードームを眺めて過ごしていた。この中に入れるならば、入ってしまいたい。閉じ込められてそのまま永遠にガラスの中でもいい。
それくらい大切なスノードームを割ってしまった。
大事に手のひらに包んで持っていたはずなのに。中の水が漏れてしまったら、いつかこのガラスの中の世界は変わってしまう。ミチコはそれが耐えられなかった。
スノードームをゆっくりとひっくり返すと、裏には会社の住所と電話番号のシールが貼られていた。
同じものが欲しいんじゃない。このスノードームを何とかして修理してもらえないだろうか。
古いものだからきっともう繋がらないだろうと思ったが、藁にもすがる思いでミチコはダイヤルを回す。
呼び出し音が聞こえてきた。
まだこの会社はここにある。そう思うとミチコの鼓動は早くなった。
「…はい」
嗄れた声の男性だった。
「あの…こちらで修理受けてませんか?」
「修理?」
訝しそうな声。多分もう修理なんてしてくれないのだ。もう一度聞いてみた。
「スノウドームの修理、できませんか?」
「はい?」
ミチコは気持ちが抑えられなくなった。感情が溢れ、涙が出てきた。
「ここのおもちゃなんです。私にとって大切な宝物なんです。お願いします」
娘がこれを買ってきた日のことを思い出していた。ミサが小学生の時だった。「お母さんへ 誕生日おめでとう」と書かれた文字と、当時ミサのお気に入りのシールがたくさん貼られた手紙。ミサが亡くなる前からスノードームは二人を結んでいた。
沈黙が長く続いた気がした。
「…修理、いたします」
「本当ですか!」
「どうぞ着払いで送ってください」
最初に電話に出た男性と声は似ているが、違う人のようだった。柔らかい声だった。
「ありがとうございます。本当にありがとう…」
涙がどっと溢れる。私の気持ちをわかってくれる人がいた。ミサはこの世にはいないけれど、またスノードームを見て思い出に浸ることができる。
その時呼び鈴が鳴った。
涙を拭きながら出ると、玄関先にミサと同じ歳くらいの女性が立っていた。
「こんにちは。私、ミサさんと一緒にホームレス支援をしていたグループのメンバーです」
そういえば見たことがあった。大学からいつも一緒の子だった。
「ああ、そうだった。ごめんなさい、お葬式にも来てくれてたわよね。えっと、お線香…かしら?」
「いえ、今日は違うんです。お母さんを誘いにきました」
「私を?」
「ミサ、いつも言ってたんですよ。『うちのお母さん、いつも前向きで明るくてお節介だからこの活動向いてると思う』って。今日はクリスマスだから来ました。一緒に行きませんか?」
そんなわけはない。私は悲しみに打ちひしがれて一歩も踏み出すことのできない人間なのだ、ミサは本当にそんなことを言っていたのか、とミチコは信じられない気持ちで答えた。
「ごめんなさい、でも、私行けないわ」
「そうですか」
がっかりした様子に、ミチコは気の毒に思った。
「あ、そうだ。あなた、お腹空いてない?おにぎり握ろうか?」
すると彼女は嬉しそうにくすくすと笑ったのだ。
「どうかした?」
「あ、いえ。本当にミサの言う通りだなって」
「ミサが何て?」
「はい。いっつも『うちのお母さん、何かって言うとご飯を食べさせる』って言ってました」
「え?」
「お母さんの口癖なんですよね?『お腹がいっぱいになったら幸せ。幸せなら元気になる。元気になったら明日に向かって歩いて行こう』って。ミサから聞いてましたよ」
確かに言っていた。なぜならミサが美味しそうにご飯を食べるのを見るのが、ミチコにとっての一番の幸せだったからだ。
「ミサはホームレス支援を始めたのは、お母さんの言葉だったんですよ」
そうだったのか。全然知らなかった。
あの子はこの世から消えてなんていなかった。今もこうして誰かを幸せにしている。
ミチコはこのまま部屋にはいられない気がした。
「…コート取ってくるわね」
「はい!一緒にお願いします!」
玄関に鍵をかけながらミチコは尋ねた。
「さて、どこに行くのかしら」
彼女は答えた。
「行ってのお楽しみです。実はね、お母さんを夢の国にご案内します」
ミチコは面白い冗談だと思った。そして娘を失ってから初めて声を上げて笑った。
第6話「クリスマスキャロル」
しまった。うっかり言ってはいけないことを言ってしまった。
「俺の息子じゃないくせに。金だろ?病気の子供をだしにして金儲けしてるんだろ?お前は」
ユウタロウは驚いたような悲しいような怒ったような不思議な顔をした後、カバンすら持たずに出て行った。
急ぎの用事でも思い出したみたいに。
こんな風にユウタロウを傷つけたくなかった。
ただ、たった一人の血の繋がった甥であっても、今のソウスケには信用することができないのだ。
何十年ぶりかにこの工場にやってきた。
「おじさん、ここ、本当に売っちゃうの?」
ユウタロウは懐かしそうに事務所の室内を見つめながら聞いてきた。
「ああ。税金がかかるだけだ」
吐き捨てるようにソウスケは答える。
「でも、会社の原点なんだよね?だから今まで残してきたんだよね?」
ユウタロウの言う通りだった。
ソウスケにとってこの工場は大切な場所だった。ここから全てが始まったのだ。
どれだけ時が経っても思い出すことができる。土産物屋の片隅に置いてあるような置物やおもちゃ屋の奥にしか並ばないブリキ玩具。派手さはないけれど人の心に残るおもちゃを、この工場で作ってきた。人の手の温かさが伝わるようなおもちゃを一生懸命に作る職人たちの顔が、見えてくるようだった。
しかし、世界的ゲーム企業となった今、社長兼会長で絶大な権力を持つソウスケは、売却する決心をした。なぜなら忌々しい場所でもあるから。
ここまでの巨大企業にするまで、数多くの人間に裏切られてきた。また裏切ってもきた。そうしなければ従業員を守れなかったとソウスケは信じていた。経営にシビアになっていくうちに、ソウスケは人を信じることができなくなっていた。
この工場が存在しているだけで、町の社長として小さな商売をしていたソウスケの甘さや緩さを思い出されてしまう。
「僕はあの時のおじさんが大好きだったんだけどなあ」
呑気なことを言うユウタロウにソウスケはカッとなった。
「おい、お前の本音はなんだ?ここを売った金が会社に入るのが許せないんだろう?このままにしておけば俺が死んだ時に自分が相続できるとでも思ったのか」
「…おじさん、俺、おじさんが死んだ時のことなんて考えてないよ…」
あまりにも悲しい顔をするから、ソウスケはかぶせるように言った。
「俺の息子じゃないくせに。金だろ?病気の子供をだしにして金儲けしてるんだろ?お前は」
ユウタロウが何も言わずに出て行ってしまった後、ソウスケは苛立ちと悲しみで叫びだしそうだった。
なぜこんなに腹が立つのだろう。
ユウタロウが言っていることが本心だからだろうか。
ソウスケの妹夫婦は40年前に交通事故で亡くなった。独身だったソウスケは一人息子のユウタロウを引き取って育てた。心の優しい子供でおもちゃ工場の職人たちにも可愛がられていた。医学部を卒業してこども病院に勤め、今は院長となっている。誰から見ても立派な男だ。
ソウスケは気が付いていなかった。苛立つ理由は、ソウスケがこんなに変わってしまったのに、ユウタロウが子供の頃から全く変わらないからだった。ソウスケが手放したくなかったものを甥のユウタロウがすべて持っているから羨ましいのだ
工場の事務所には机が並び、黒板には発注が白墨で書かれている。そこで笑顔で働く人たちがたくさんいれば、あの時のままのように思えた。
その時、静寂を破って、突然机の上で埃を被った黒電話が鳴った。
(まさか…回線を切っていなかったのか?)
ソウスケはしばらく悩んで、受話器を取った。
「…はい」
女性の声だった。
「あの…こちらで修理受けてませんか?」
「修理?」
「スノウドームの修理、できませんか?」
「はい?」
「ここのおもちゃなんです。私にとって大切な宝物なんです。お願いします」
女性は涙声になっている。
ソウスケはこの場所で社長だった頃、自ら修理担当の電話番をしていたことを思い出した。
今のようにソフトの書き換えや交換で済ませてしまうのではなくて、購入した人のの手から修理職人の手に渡っていた時代だった。
どれだけたくさんのお礼状が届いただろう。涙ながらの感謝の電話も何本も受けた。
あの手紙の束はどこにしまっただろうか。いや、本社移転の時に全て捨ててしまった。
「…できませんよね…」
ソウスケは自ら発した言葉に自分でも驚いた。
「…修理、いたしますよ」
「本当ですか!」
「どうぞ着払いで送ってください」
「ありがとうございます。本当にありがとう…」
心からの感謝の気持ちを伝えながら女性は電話を切った。
ソウスケはある男を思い出していた。
(古臭いおもちゃを直すのは朝飯前のやつが昔いたな…。あいつは今何をしているのだろうか)
電話を切ったソウスケはしばらく黒電話を見つめていた。
なぜこの電話にかかってきたんだろう。あの時からずっと契約が続いていたのか。
するとまた電話の着信音が聞こえた。
黒電話ではない。携帯電話だ。ユウタロウの置いていった鞄の中から音がする。
戸惑いながらもソウスケは鞄を開けて携帯電話を取り出した。
そして、自分でもわからないが、通話ボタンを押していた。
「…はい」
「院長!もうすぐ診療始まりますよ!子供たち来てますよ!ユウトくんはまた調子が悪くなったのに、入院したくないって言ってるんです。クリスマスに病院は嫌だって。それから4階に入ってるモモちゃんは朝からずっと泣いてます。サンタさんに退院させてって言ったのに、朝起きても病院だって。サンタさんなんかいないって。お母さんが困っちゃって。クリスマスパーティー、やっぱり開けませんか?病院のお金がないのはわかってるんですけど」
ソウスケは驚いた。ユウタロウの病院の経営がうまくいっていないなんて聞いたことがなかったからだ。今まで一度も病院に関して金の無心をされたことがない。それくらいの金、どうにでもなるのに。
「…金がないのか?」
「そんなの院長が一番わかってるじゃないですか!お金がないから毎年の行事もできないんですよね?でもせめてクリスマスパーティーくらいないと子供たちも頑張れないじゃないですか!院長?聞いてます?」
「あ、いや、私は院長ではないんだ。ただ忘れ物の電話に出ただけで」
「え?…あ、あの…し、失礼しました!」
切れてしまった。
ソウスケは胸が締めつけられた。自分が許せなくなった。
俺はさっきユウタロウに何て言った?子供をだしに金を稼ぐだなんて、なんと酷いことを。俺は周りの人間すら見えていなかった。自分に一番近い人間のことさえ。
その時、また黒電話が音を立てた。
もうソウスケは出ることを迷わなかった。
「…はい」
「…お前が誰かなんて俺には関係ない…」
この声、どこかで聞いたことがある。
声は話を続ける。
「…俺はな、本当はこんな生き方したくなかったんだ。今こんなに苦しいのはお前のせいだ。俺は悪くない。ただ不器用に生きてきただけだ。不器用すぎたんだ。お前は人のことを不幸にしてきた。その報いがいつかお前に降り注いで、お前も俺みたいに最悪な人生を送ることになるんだ。どうだ?悲しいだろう?」
声を聞いてソウスケの心の奥からある言葉が沸き起こってきた。それは今まで一度も誰かに言ったことがない言葉だった。
「…悪かった。すまなかった」
ソウスケは自分でも驚いた。それでも自分の口からさらに言葉が続いて流れていく。
「辛かっただろう。苦しかっただろう。一生懸命に生きたことは悪くない。そんなあなたを抱きしめてやりたいんだ。頑張ったなって」
全ての言葉を吐き出すと、ソウスケは薬を飲んだように胸が楽になった。すると、電話の男がこう言った。
「あんたはいい人だな。ありがとう。聞いてくれて。あのさ、俺みたいになるなよ。俺みたいに。あんたは俺とは違う。いいやつだ。俺みたいにならないでくれよ。お願いだよ…」
ブザーのような音がして電話が切れた。
あの声は知っている男の声だ。誰の声だったか。ソウスケは考えた。
(そうだ、俺の声じゃないか!)
むやみに人に怒りをぶつけ、人を信じることができない。まさにそんな人間の声だった。
今のは未来の俺からの忠告だったのか。
声は言った。
「俺みたいになるな」
いや、今の電話だけじゃない。さっきのスノウドームの修理を頼んだ女は過去から電話をかけてきたに違いない。
ひたむきに子供たちの顔を思い浮かべながらおもちゃを作っていた頃の自分に、電話で話しかけてきたのだ。
妄想なのか夢なのか。
ただ、ソウスケは自分がさっきまでとは別の人間になったように感じていた。
今までたくさんの人を傷つけてきた。10人か20人か、いや100人、1000人、ひょっとしたら1万人くらいの人たちを傷つけ馬鹿にし、人生を台無しにしてきてしまったのかもしれない。もう取り返しがつかない。
自分は何と愚かな人生を歩んできたのか。
事務所の40年前のカレンダーが目に入る。12月だ。
そうだ。今日はクリスマスだ。
クリスマスパーティーを開くことはできないだろうか。今日から自分が生まれ変わった証として。クリスマスのご馳走やケーキがあって、綺麗なイルミネーションがあって、みんなを笑顔にしたんだ。幸せを感じてもらいたいんだ。
ユウタロウの病院にいる子どもたちもその家族も病院スタッフも。それから町中の困ってる人も困ってない人も。誰でもみんな呼ぼう。
みんなが集まれる広い場所…確かこの町には古い遊園地があった。あそこなら。
この素晴らしいアイデアをすぐに実行したい。誰に話そうか。
そこでふとソウスケは気が付いた。自分には夢を語る相手が一人もいないことに。
あの遊園地、もう閉園したんだったか。空いていても急に今日遊園地を貸切なんて無理だ。
クリスマスのご馳走は?そんなにたくさん誰が準備をする?誰がみんなに声をかける?
やっぱりこれはただの夢なんだ。妄想なんだ。叶うわけがない。
でも、もしも。もしもそんな夢みたいなことが現実になるのなら、人々を笑顔にできるのなら、自分は生き直すことができる。残りの人生を誰かの幸せのために生きていけるはずだ。
ふと手元にあるユウタロウの携帯電話を見つめた。誰かに…話す。さっきのユウタロウの病院の女性なら話を聞いてくれるだろうか。誰か一人に話を聞いてもらったなら、そこからさらに誰か一人に話が伝わって、物事が回り始めたりはしないだろうか。
今までのソウスケの人生では、一度たりとも奇跡はなかった。けれども、今日だけは奇跡は起こると信じてみたかった。
ソウスケはリダイヤルボタンを押した。
長い呼び出し音の後、電話が繋がる。
電話の向こうから子供たちの歌う優しいクリスマスキャロルが聞こえてきた。