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「二人称的記述」としての鑑賞は可能か?

こんにちは、臼井隆志です。今日はブログを更新します。最近読んでいる寺山修司さんの本と保育論が妙につながってしまったので、そのことと今企画している「メールによるワークショップ」についてのことを書きました。

このマガジンは、アートワークショップを専門とする臼井隆志が、ワークショップデザインについての考察や作品の感想などを書きためておくマガジンです。週1~2本、2500字程度の記事を公開しています。

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二人称的記述とは何か?

「出来事を客観的に、誰にでも何がおきたかがわかるように記述せよ」

これは、参与観察調査でフィールドノートを書くときに鉄則として教わったことであり、ピアジェ以降の発達心理学研究のなかで子どもの行動を記述する際の鉄則としてあった。

Aはサッカーボール大のボールを両手で持ち、5mほど歩いてボールから手を離した。ボールが弾む様子に目線を向けていた。

たとえばこんなふうな記述になる。つまらない算数の問題のような文章だ。

「二人称的記述」においては、ここに単なる名詞や動詞だけでなく「副詞」としてAの心をとらえていく。

Aはサッカーボール大のボールを両手で抱えるように持ち、こちらに向かって真剣な面持ちで5mほど歩くと、手からボールが落ちてしまった。落ちたボールが弾む様子を、じっと眺めていた。

「抱えるように」という副詞から、Aの体の小ささとがんばりが伺える。「真剣な面持ちで」という副詞から、Aがふざけていたわけではなく、ボールを運ぶことに集中していたことがわかる。「こちらに向かって」という記述からも、こちら=記述者とAがボールを使って遊んでいる様子が目に浮かぶ。「じっと眺める」という表現からも、ボールが落ちたことを悔しがるのではなく、ボールが弾むという現象に関心が向いている様子がうかがえる。

佐伯胖さんたちは、このような記述を「二人称的記述」といい、子どもの心のありようを感じ取るために必要だと論じている。子どもにとって「わたしの心のありようを共感的に感じ取る人がいる」という実感が、世界を探索するための基盤となるからだ。

このことを「子どもがケアする世界をケアする」という本の中で表現されている。

https://www.amazon.co.jp/dp/4623081087/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_aFq5FbMEJWC73?_encoding=UTF8&psc=1

この「二人称的記述」もしくは「二人称的関わり」は、子どもと保育者の関係だけでなく、保育者と保育者においても必要な視点なのではないか?と感じている。

また同時に、アートの文脈におきかえれば、アーティストと鑑賞者、鑑賞者と鑑賞者のケアの問題でもあると感じられる。

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