ホモソについての冗長な文

いつものように、ボケーっとツイッターを眺めていたところこんなツイートが目に入った。

リンク先の記事が期間限定無料公開らしいので簡単に説明すると、「一見優しくて結婚も考えていた中高男子校出身のエリート風彼氏が、実は彼女の盗撮写真や下着、更には情事で血が出た様子を自慢げな言葉とともに男友達とのLINEグループで共有していてショックだった」というエピソードを「ホモソーシャルの闇」として紹介されている。記事では他にも彼女の友人を平気で「ブサイク」と言うなどの事例が紹介されており、記事のタイトルにも「ホモソーシャルの闇」という言葉が掲げられている。
記事自体は対談の書き起こし形式で、社会問題とか言論ではなく『本当にあった!恐怖のクソ恋愛体験』的な軽い語り口だったため、「こんなもん真に受けてくれるな」という気持ちでリプライをつけた。

これに対する高崎さんからのリプ。

私は反省した。今なお心無い誹謗中傷の吹き荒れるSNSにおいて、ジェンダー関係の話題を振るというのは非常にリスクが高い。そんな中高崎さんは以前から論理的かつ建設的な観点からジェンダー論に切り込んでおり、こと傾聴という点においてはツイッター上で男性の意見を聞いて丁寧に返信される様子に私はとても心打たれたものだ。高崎さんはハフポストの記事で西村博之氏にもその傾聴の姿勢を発揮され、今なお一向に埋まらないジェンダー間の認識のズレの一端を明らかにしたが、残念ながらフェミニスト・アンチフェミ両サイドの立場から批判の範疇を超える攻撃をする者があったことは記憶に新しい。

そんな経験にも懲りず、「こんなこと書いてあるけど、実際どうなの?」とカジュアルに我々に問いかけ反論の機会をくれる高崎さんに感謝こそすれ、雑に返答してしまった我が身に恥じ入るばかりである。この場を借りて高崎さんにはご無礼をお詫び申し上げたい。

話は戻って続くリプは以下の通りだ。

思いがけずいい反応を頂き望外の喜びであったが、自分としてはやはり140字の枠にスマホで書くにはあまりに足りないと考えたのと新たな気づきがあったので、お約束通り諸々書き連ねる現在に至る。

前置き長っ。


 さて本題に入る前に私の立場を明確にしておきたい。
 既婚30代男性である私は中学は共学だが高校は男子校の出身で、今でも年に2、3回程当時の同級生と集まる飲み会を主催している。飲み会だけに限らず仲間達とはLINEグループで普段からやり取りをしており、状況のみで見れば記事に登場したような「ホモソーシャル」の中心にいることになる。この仲間は私にとって自覚している以上に大切だったようで、ホモソ=悪ととられかねない記事に対して感情的に反応してしまったひとつの要因と言えよう。一方で私は2年ほど前に大規模製造業から小さな商社へと転職しており、営業マン中心の新しい職場ではカルチャーショックを受ける場面も多々あったが、これも立派なホモソのひとつであることは当初思い至らなかった。現在私が所属する、同級生と職場、この2つのホモソを考えていくことで高崎さんの問いかけに回答していきたい。

 まずは最初の記事をベースにした問いかけ、意図としては「ホモソでは本当にパートナーを美醜や下ネタの対象にするような意識が当然に共有されているのか?」というものだと認識している。
当初私は雑に答えてしまい、全く言葉足らずもいいところなので改めて回答しておきたい。私の所属するホモソではそのような下衆をやっている事実はない。しかし他のホモソでは起きていることは想像できるし、客観的には私のホモソでもやっていることになるかもしれない。
 男子高校生当時はもちろん、現在も私は同級生とは下ネタを大いに楽しんでいる。そこには、普段口にしない幼稚な言葉を発せられる解放感とともに男子校生当時の精神を呼び起こし連帯を確認する意味合いも含まれているような気がする。しかしこれ自体は内輪ネタで盛り上がるのとさほど変わらない感覚で、妻には聞かせられないとは思うものの聞かれない分には罪悪感もない。そんな下品な私が記事の彼らを下衆などど断じられる根拠はやはり現実との距離感だと考えている。
 我々の口にする下ネタは通常AVや妄想、メンバー本人の性癖に留まり、自分や互いのパートナーを性的なものとして話題にしないのが暗黙のマナーになっている。理由は色々あるだろうが、いかに偽悪的露悪的に下卑た物言いをしてみても実際に法を犯したりしないのと同様である。自分たちの集まりは一時の楽しみや息抜きのものであって、これが終われば皆各々の本来の暮らしがあることがわかっている。一方記事の男たちは仲間内の価値観における楽しみを充足させるために現実のパートナーを犠牲にしており、仲間内の楽しみが現実のパートナーに優先されている。この記事の男が本気でパートナーの下着画像を見せ合うのが楽しいと思っているのか、友達の前でお調子に乗って彼女に悪いとは思いながらも写真を撮ったのかはわからないが、そういうことをする奴は元々そういう奴だし、そういう奴同士が集まって最悪のグループを作ってただけに思える。付くも離れるも自由な友人関係においては価値観にズレがある者は相手を否定することなく自然と離れていくし、残った者は近しい価値観同士を互いに強化していくことは想像に難くない。手前味噌になるが私の出身高校は地元では名門と呼ばれる高偏差値校だったが、思えばこういうことをやりかねない者はクラスには実際いた。しかしホモソーシャルが必ずしもパートナーをネタにしてるわけではないし、ホモソーシャルだけがとりわけこうした価値観を強化することはないと強調しておきたい。
 なお、もし高崎さんの問いがパートナーとは関係なく他者に性的な視線を向けたり、それをネタに盛り上がったりするという点にフォーカスしているとしたら残念ながら私は間違いなくその下衆の一員ということになろう。前述の彼らと我らの違いは目くそ鼻くそでしかないと思われるかもしれないが、私は「仲間内のみ」「実生活を持ち込まない」「実生活に持ち込まない」という範囲で楽しむ限りにおいては下ネタ話も我々という集団にとっての内心の自由であると考えているため、やはり私にとっては彼らと我々の間には大きな壁があるのだ。

 さて、2番目の問い。「ノットオールメンはホモソの内部では起きないのか?」すなわちホモソ内で悪い方向に価値観の強化が発生しているときに、これを内側から声をあげて流れを変えることはできないのか、ということだ。これについては難しいだろう、というのが私の認識だ。
 そもそもノットオール〇〇という声を○○の集団の一員が他の○○に対してあげる、という行動が私にはとても新鮮だったため具体的なイメージにいささか苦労した。例えば私の同級生のグループで誰かがパートナーの下着の写真を流したら?私はシンプルに「よしなさい」とか、他のメンバーが喜んでいても「俺はこういうの無理だわ」と言えるが、これはノットオールメンなんだろうか?ノットオールメンというからには、仮に私自身が嫌ではなくても他に嫌な人がいるかもしれないから、という理由でたしなめる必要があるのではないか?しかし元々価値観が近い、平たく言えば気が合うから自主的に集団を成しているのにそこにいないかもしれない他者の誰かのために声をあげることに意義があるのか?と思考が袋小路に入ってしまったときにある記憶が蘇った。
 今の職場に中途入社した当初、何度もゴルフをやるように誘われた。適当な理由をつけて断っていたが、ある時飲み会で何故やらないのか、会社に溶け込むつもりはないのかと問い詰められた。仕方なく正直に休日に金払って会社の人間と会う意味が全くわからないと言ったところ相手は怒り出し、そんなに好きにしたいなら自分の会社作れと言われたのでいずれはそのつもりです、と答えたら絵に描いたような苦虫を嚙み潰したような顔をされた。それ以来諦めてくれたようで声はかからなくなり、私としては同僚とは適切な距離を保てているつもりだが客観的には干されているだけなのかもしれない。
 さて、職場と友人のホモソで違うのは序列の有無と所属の自由である。友人であれば基本的には互いに対等だし嫌なら離れるのも自由。しかし職場権力を持つ者と持たざる者があり、また集団を形成する相手に自分の意思を反映させることは困難だ。このような集団において権力者が下位の者に従属の証として同じ価値観を求める構図はマチズモと親和性が高く、そうした意味でホモソで他の集団より強化が起こりやすいというのも頷ける。
 一方で私がいかにゴルフをやりたくなくとも「私以外も含め他者をゴルフに誘うな」という権利はない訳で、私ができることは結局「私はゴルフやりませんよ」すなわちノットオールメンではなくノットミーに留まることになる。隅に追いやられようとも職場の一員としてゴルフがやりたくない人の可能性を示すという意味では全く無為ではないだろうが、逆に「ゴルフをやらないやつはこういう扱いを受ける」という見せしめになり、序列を強化する結果にもなりかねない。結局、既存の価値観に抵抗しても許されるホモソは初めから反マチズモ的価値観に寛容であり、典型的なマチズモホモソはノットオールメンで改善はしないというのが私の考えである。(この問いについてはツイッターに書いたままのほうがむしろ伝わったかも)

 さて、以上で高崎さんの質問に対して考えたことは冗長にも書き連ねたわけだが、この2番目の問いに関連して、ふと私の友人たちのグループでは同じことは起こっていないのか心配になった。先ほど「私のグループは良いホモソ!悪いホモソと一緒にするな!」などと吹いたが、メンバーは皆立派な大人であり、親になった者もある。価値観は高校生当時と変わって然るべきだろう。もしかしたら今までと同じエロ話でも不愉快に思っていて、でも排除されたくないからそれを言い出せない者がいる可能性は残念ながら否定できない。私個人としてはいつまでも子供でいられる関係だからこそ楽しんでいたのだが、メンバーによっては新たに少し大人同士の関係に発展させる可能性も模索すべきかもしれないと気づくことができた。
 またホモソ内で発生しうるマチズモの相互強化の可能性についても具体的なイメージに結び付けることができた点も大きい。私はジェンダー問題については従来からさほど関心があるわけではなかったが、マチズモの持つ嗜虐的あるいは反道徳的側面について嫌悪感を覚えることはしばしばあった。私が考える良いホモソ・悪いホモソの境目はマチズモがポイントになる可能性があり、これを明確にすることで自分の所属するホモソが悪いホモソになることを防ぐことができれば幸いである。
 あとは、やはり長いこときちんと文章を書かないと伝える力が落ちるなあと(言い訳)。BLMとか香港とかに対しても色々なもやもやがあって、しかし簡単には言語化できないから発信してこなかったが、やはり書かないともやもやのままだ。きっかけをくださった高崎さんには改めて感謝である。

 最後に、冒頭の連載記事の別の回を読んでみたらこんな内容が。

森田 そういえば俺の知り合いにも、友達の彼氏と付き合って結婚した女性がいる。そのふたりの場合はノリシロ期間があったみたいなんだけど。
清田 形としては浮気状態だったってことね。それこそドラマやマンガで繰り返し描かれてるイメージがある。
ワッコ いわゆる略奪愛ですよね。
清田 いろいろ端折ったら「略奪」になってしまう……本人たちからしたら、惹かれあってしまっただけっていうマインドなんだろうけど。
森田 奪うこと自体は目的ではなくて、結果論だもんね……

うーん、きーもちーわるーい。私の価値観だと彼らも十分下衆だ。この連載についてはやはりまともに受け取るもんではない。

お寿司を食べます。