見出し画像

【歴史探訪】柿本人麻呂の歌碑in宿井浜《すくいのはま》

 牛窓海水浴場の浜の北側、牛窓神社の鳥居のそばに歌碑があります。
  牛窓の 波の潮騒 島響き 寄さえし君に 逢わずかもあらむ
この歌は萬葉集巻十一 寄物陳思《きぶつちんし》――何かモノに想起されて詠んだ歌で、作者未詳歌とされています。地元では柿本人麻呂作と伝えられていますが……。
 そもそも萬葉集は「万葉仮名」と言われる漢字による表記。(「萬」と「万」は書き分けました。)例えばこの歌は、ある伝承本では、
  牛窓之 浪乃塩左猪 嶋響 所依之<君> 不相鴨将有
とあります。萬葉集の読み方は先人たちが解読してきましたが、未だにわからない超難読部分も多々あり、じっと文字を見つめていると、文字がばらばら動き始め、ゲシュタルトの崩壊が起こったりして。ともかく国文学者の忍耐によって徐々に読み方が定説化されてきたものの、これが実際にそう読まれたか本当のところはわからない、それが萬葉集なんですね。
 さて、この牛窓の歌の前後にも地名の入った歌が並んでいます。論文を探すと、「地名が変わっても意味をなす歌と、意味をなさなくなる歌を類型化して、入れ替えが不可能な地名の歌は生活圏外の地名への関心の高まりを背景に、作歌の参考として選ばれたのではないか」というものがありました。この歌の場合、歌の意味から言えばさらにローカルかつ楽器の意味も付随できる「唐琴の」とした方が伝わりやすそうですが、漢字で「牛窓」と明記されていますので、確かに「牛窓は潮騒の音が高い」という見本にしたかった感じも漂っています。
 仮にこの一群の歌は「教科書的に地名を含めた歌を並べたうちのひとつ」としましょう。では、それを意図したのは誰?という問題が浮かんできます。萬葉集は成り立ちが重層的と言われ、いつ、誰が誰に命じてまとめられたものか、いまだに議論が続いています。最もかかわりが深そうなのは大伴家持《おおとも・やかもち》。家持は「いまだ山柿《さんし》の門に至らず」と山辺赤人(山上憶良という説もあり)と柿本人麻呂を崇めていたことが伺えますし、萬葉集編纂時期には、すでに人麻呂は「歌聖」と認識されていましたので、「人麻呂歌集にある」など引用歌が多いのも、権威付けにもってこいだったのかもしれません。
 次に、その柿本人麻呂とはどんな人?ですが、大変残念なことに、柿本人麻呂は「朝臣《あそん・あそみ》」という古代の姓《かばね》がつくので相当な立場であろうと考えられるにもかかわらず、日本書紀など公的記録には登場しない、謎に包まれた人物です。しかし、萬葉集に納められた長歌の荘厳さは比類がない、と称えられてきました。萬葉集の歌以外の部分を注意深く読むと、人麻呂は持統天皇の時代に、天皇や皇子たちに近く侍り、儀礼の歌を高らかに詠んだことはほぼ間違いありません。また、私的な相聞歌《そうもんか》など喜怒哀楽を詠んだ歌もとても魅力に満ちていて、プロフィール不詳の謎と相まって虜になる研究者や作家がたくさんいます。例えば、史実にわずかに出てくる柿本猨《さる》、または佐留《さる》が人麻呂である、なぜなら「人」から貶められて「猿」とされたからという説を展開した哲学者梅原猛氏は、さらに「三十六歌仙の猿丸太夫も柿本人麻呂である」と『水底の歌』で論を広げています。
 そもそも柿本氏について。庭に柿の木があるから柿本さん、と伝えられています。奈良ですからね。献上品レベルの美味しい柿だったのではないでしょうか。柿本氏は和爾氏支族の春日氏の支流と言われていて……あら、妙なご縁で……というのは、人麻呂が亡くなったとされる石見《いわみ》の国は今の島根県。古代出雲王国のすぐ近くです。そして因幡《いなば》も近いですね。因幡と言えば白兎、実は、ウサは「宇佐」、兎がだました鮫は方言ではワニ、つまり「和爾」……この物語は実は九州の宇佐氏と、山陰の和爾氏の争いを表しているという説もあったりして。ならば、牛窓神社は、宇佐八幡宮から勧請された神様をお祀りしていますので、和爾氏とも関係の深い柿本人麻呂の歌碑がその鳥居の側にあるのも因縁めいています。
 話を大伴家持に戻すと、実はこの人、大伴という「武」でもって朝廷に仕える氏族の長。「かりそめにも先祖の名を絶やすことのないようにせよ」と一族に軽挙妄動を慎むよう発した「族《やから》を喩しし歌」というのもあります。このころから「ヤカラ」って言うんだ~と発見はさておいて、奈良時代にはおおらかで風雅なイメージを持ちがちですが、貴族社会は壮絶でした。
 奈良時代、柿本人麻呂が活躍した持統朝。儀礼の場の人麻呂の歌の格調高さ、荘厳雄大さにより、天皇権力が最高に盛り上がりました。さすが、今でも日本史上第一の歌人と言われるだけあります。しかし、持統天皇は亡き夫・天武天皇との思い出の地・吉野への行幸があまりにも多いというわがまま問題がありました。692年には「農事の妨げになるから、今、伊勢に行くのはお止めくだされ!」という近臣の諫言を押し切ってしまいます。このとき人麻呂は都に留まりました。以後、賛歌の詠みぶりが変わってしまい、人麻呂の作った歌で確実な年が分かる最後は700年。そして人麻呂のパトロンともいわれる多治比嶋《たじひ・しま》が701年死亡、柿本佐留の死は、続日本紀に708年とありますが、権力高揚に尽力したはずの人麻呂の死に関する記述は全く残っていません。
 少し経って718年、大伴家持誕生(※有力説です)、母は多治比氏の丹比郎女《たじひ・いらつめ》(←人麻呂のパトロン氏族とのつながり!)。731年に父が亡くなると、家持は10代で一族の長になり、その後、聖武朝では青年貴族として順当に出世。しかし、続く孝謙朝では天皇お気に入り藤原仲麻呂暗殺嫌疑から家持は薩摩に左遷。孝謙天皇が重祚して称徳天皇となり今度は道鏡事件が勃発し……その間なんと20年以上、家持の位階は据え置き、ありえないレベルの不遇でした。770年、称徳天皇が亡くなるとたちまち家持は中央で出世しはじめ、光仁天皇即位後も家持は在京のまま781年には従三位、名門氏族長にふさわしい位階となりました。しかし、光仁天皇が亡くなり、桓武天皇が即位すると、家持は解任されたり、参議従三位兼春宮大夫に復したりと落ち着かず、挙句に陸奥に飛ばされ、とうとう785年多賀城で亡くなって、なお、桓武天皇お気に入りの藤原種継暗殺事件の、首謀者は家持!埋葬は許さない!資格もはく奪!となりました。いくら口がないからと言っても、ひどすぎますね。806年平城天皇が即位すると、家持はやっと従三位に戻されました。
 貴族って、本当に大変ですね。家柄によりほどほどに出世しているうちは良いのですが、才能があり過ぎて権力に近過ぎた人麻呂や、若くして氏族を背負う運命で苦労した家持は、それぞれ、わがままの強い天皇との関係性で地獄を見ました。政権にとって都合の悪い「吉備の国」のことが黙殺されている日本書紀等、柿本人麻呂略歴もあえて書かない「無視」パターン?いや、それどころか、人麻呂が非業の死を遂げていたなら、あな、おそろしや。あの歌聖人麻呂ですら、急に活躍の場を失った……貴族たちは他人事とは思えず、共感しきりだったでしょう。のちに明石にも祠が祀られましたし、今も親しまれている柿本神社も鎮魂のためという噂もあります。そう思ってこの歌をもう一度眺めると、
  牛窓の 波の潮騒 島響き 寄さえし君に 逢わずかもあらむ
下の句の「君」は妻や恋人ではなく、天皇だとしたら……、なにしろこれ、恋愛の相聞歌カテゴリーではなく、寄物陳思ですから。地方の実態を知り、防人とも接する武門でありながら、(結構あちこちの!)女性に文を贈り、文人仲間と宴(と称した作戦会議?)で交流もする大伴家持、尊崇する柿本人麻呂の非業を波という物に寄せて萬葉集に織り込んだのかもしれませんね。

参考文献----------------------------------------
「万葉集巻十一・十二作者未詳歌における地名歌の非民謡性」栃尾有紀、『新編日本古典文学全集 萬葉集』小学館、『万葉集』岩波文庫、『柿本人麻呂』多田一臣、『水底の歌』梅原猛、『柿本人麿の謎』栗崎瑞雄、日本史リブレット『大伴家持』鐘江宏之、等
監修:金谷芳寛、村上岳 文と写真:田村美紀

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?