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ジェネレーター 学びと活動の生成|市川力+井庭崇 の世界を散策する①

楽しみにしていた本が届いた。ジェネレーターの森を散策するように、ゆっくりじっくり読んでみようと思います。さぁ、森へ出発!

これだった・・・教育現場での[becoming]違和感

従来の教育現場では、外側から知識を伝達するという発想が主流であった。
もともとあった知識を対象とする個体の脳内に「移転する」のが教育であり、「その場で生まれる」とは捉えない。
P17 抜粋

早速見つけてしまった・・・。

図工の先生になってしまった僕とって、外側からの知識を伝達する手法を取れず、僕は「その場で生まれる」つまり「生成 becomeing」する場づくりでした授業ができなかった。こどもたちと一緒に悩んで、一緒に考える、こどもから教えてもらう他に手段がなかった。でもすぐにこれで「いいじゃない?」と感じて、それをやり続けていた。8年間、知識を伝達する授業なんてやったことない。

図工の授業というと、多くの人はつくったり、描いたりすることを目的、もしくはその技術向上を目的とした時間だと思っている節がある。(僕も図工の先生になるまでそう思っていた。)

それは図工の授業というのは、教師の知識・技術を子どもに伝達し、子どもたちがそれを受けて、作品という「存在 being」に表すものだと、理解していることになる。

つまり、図工の先生というのは、子ども達がより良い作品(「存在 being」)を表せるように、子どもに知識・技術を上手に伝達する存在と思われているのだ。事実、そういう先生はいっぱいいるし、優れた美術教育者だと思う。でも僕はそうはなれなかった。

どうりでずっーーと違和感を感じているわけだ。

僕のことを知っていくれている人の期待感と役割の共有が、僕をあまり知らない人(肩書きやキャリアで捉えている人)とでは全然違う。それはこのせいだ。

「図工の先生」という肩書きや実践から、他者が僕の寄せるイメージと期待感は、上記の「存在 being」を重視する考えによるものだ。

「山内さんがやると、すごいものがつくれそうだと思って・・・」と話をもらうことも少なくない。
つまり「すごい「存在 being」(作品)を期待している」ということになる。
さらに「たとえば・・・」と具体的なアウトプットイメージを提案されることもある。

でも、ごめんなさい。僕はそれはできないんです。それができる優れた美術教育者は、たくさんいるんですよー!と。

僕は、こどもたちと一緒に、あーだこーだと悩みながら、その流れや成り行きで生まれてくるものでしか生み出せない。

なぜなら、僕は「存在 being」(作品)よりも断然、「生成 becomeig」に強い関心がある。本書から言葉を借りれば、僕も「答えがあるかないかより、答えをつくってゆくことへの関心が原動力」なのです。

「ジェネレート」していゆくということは、固定的な何かを見るのではなく、物事の生成・変化に向き合うことだ。そしてそのように生きることだ。
P16

大学生の頃は、とにかく旅が好きでした。ツアーには1度も参加したことはありません。あらかじめ宿を予約することもほとんどありませんでした。
事前に綿密に計画をたててイメージされた「よき旅」を実際になぞるのではなく、成り行きで、生成されていく、偶発的な出遇いのよってダイナミックに変化していく、そういう旅が大好きでした。

そういう意味では、20年前の僕と今の僕は、対して変わっていないのかもしれません。

「つくることによる学び」や「創造的な学び」に対して、教師は一緒につくることに参加するジェネレーターとなることが重要となる。
P44

これも、とても納得するところです。
僕が好きな図工の先生たちは、みんなこれが上手です。みんなジェネレーターだったんですね。

逆に、苦手そうな先生たちもよく見かけます。見守るモードになったり、自分は手を動かさず声かけを一生懸命されていたり、はたまた別のことされていたり。。。

実際学校は30〜40人くらいを1人で見るので、さらに評価するっことがついてくると、自分がつくることに没頭できない!という状況は大いにあって、それを難しくさせていますが、雰囲気というか、その場を楽しんでいるかどうかはすぐにわかります。指導者モードなのか、一緒にあそぶ、つくるジェネレーターモードなのかは、纏う雰囲気が違うなぁと思うのです。

あー、困った。こんなペースで読んでいったら、このジェネレーターの森の散策から抜け出せなくなりそうです。